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われわれは“ボロ”デューサー 市川雷蔵ゆかりの映画プロデューサーが日本映画黄金期の裏側を明かす

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蔭山俊夫氏
蔭山俊夫氏

 伝説の映画スター・市川雷蔵さんの代表作47作品を一挙上映する映画祭「雷蔵祭 初恋」開催を記念したトークショーが23日、角川シネマ新宿にて行われ、映画プロデューサーの蔭山俊夫氏が登壇した。没後45年たっても衰えを知らない雷蔵さんの人気を示すかのように、この日は朝早い上映にもかかわらず約200名の観客が来場。蔭山氏が語る雷蔵さんの魅力、日本映画の裏事情に熱心に耳を傾けた。

 昭和の日本映画黄金期を製作側から支えた蔭山氏。当時は映画が量産され、昭和38年から倒産するまで所属していた大映では、10人ほどいたプロデューサーが、一人年間50~60本の映画を作っていたのだとか。いわゆる「プロデューサー」とは一線を画す「企画者」といわれていたそうで、「企画からキャスティング、作品を作るまではするが、あとは制作部に渡せば終了。予算に責任は持たないし、興行収入は入ろうが入るまいが関係なかった」と振り返り、「われわれは“ボロ”デューサー」と表現した。

 そんな時代に手掛けた作品の中で印象に残っているのは、長谷川一夫さんを筆頭に、勝新太郎さん、鶴田浩二さん、雷蔵さんらオールスターキャストで作り上げた『忠臣蔵』(1958)だという。また、『新選組始末記』(1963)では、キャストを決めていない状態で脚本を読んだ雷蔵さんが、社長に直談判して主役の座を射止めたエピソードも披露。ところが、「役者の越権行為や!」と監督が怒っていたという後日談も明かし、会場の笑いを誘った。

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 自分の意見をはっきり言い、ときに脚本や共演者についてごてることから、“ごて雷”と呼ばれていたそうだが、稀代の映画スターとして誰からも愛されていた雷蔵さん。最後に、雷蔵さんが撮影所に浴衣姿でカタコトと下駄を鳴らして現れると、「雷ちゃんが来たよ!」と誰もが笑顔になったと、目を細めて懐かしんだ。

 歌舞伎界から映画界へ転身後、わずか15年の映画俳優人生において159本もの作品に出演し、37歳の若さでこの世を去った映画俳優・市川雷蔵さん。「雷蔵祭 初恋」では、雷蔵さんの映画デビュー60周年を記念し、初デジタル化となる初期主演作6作と代表作、計47作品が一挙上映される。(取材・文:鶴見菜美子)

「雷蔵祭 初恋」は角川シネマ新宿で上映中、ほか全国順次上映

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