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『クソ野郎と美しき世界』レビュー:これは傑作!喪失と再生がそこに<ネタバレあり>

『クソ野郎と美しき世界』
『クソ野郎と美しき世界』 - (C)2018 ATARASHIICHIZU MOVIE

 詳細は謎のままで、マスコミ試写も行われない。筆者は「新しい地図」の3人にインタビューをする機会があったため、出来上がったばかりの脚本を目にする機会はあったものの、読んでもさっぱりイメージがつかなかった。どんな映画になっているのだろう……久しぶり、というより、たぶん初めての緊張感を胸に映画館に赴いた。(相田冬二)

【写真】本作の初日イベントでの3人

 ズバリ、傑作である。劇中には「歌喰い」なる不思議な少女が登場するが、これはすべての「映画喰い」が観なければいけない、とても新しい映画だと思う。

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 たとえば、いわゆるオムニバス映画の範疇(はんちゅう)は明らかに逸脱しているが、かといって、虚構が現実世界にあふれ出ていく擬似ドキュメンタリーというわけでもない(そのような要素も含んでいるが、作品が向かっているのはそこではない)。

 フィクションをとことん煮詰めれば、豊穣(ほうじょう)かつ普遍的なメッセージに到達することがある。そのことを思い知らされ、感動する作品だ。そう、前例のないタイプの映画であるにもかかわらず、人間の根底にある感情に届き、突き刺さる熱情があるのだ。

 全4エピソードから成るが、そのうち3編はいずれも「喪失」がテーマだ。

 稲垣吾郎の『ピアニストを撃つな!』では、ひとりの女がマフィアのボスの元から全力で逃走、愛するピアニストのいるところまで駆け込む。これはボスにとっての「失恋」であると同時に、最初に恋した男=ピアニストをとことん追いかける女の「純情」を意味する。深読みするなら、これはある種の「ファン論」かもしれない。なぜなら、ピアニストは、「わたしに逢いたくなったら、この花火を打ち上げて」と女から渡された花火を打ち上げ、その花火を見て、女は走り出すからである。好きになった男を決して忘れない。その一途な想いを、園子温監督は徹底した活劇として見せる。追うボスと、追われる女。待っている男。派手で過激なアクションに目を奪われるが、底辺には喪失感が渦巻いている。

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 この感覚はいったい何だろう? 戸惑っていると、続く山内ケンジ監督の『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』がある答えを授けてくれる。公共の壁に絵を描いては警察のお世話になっている主人公「香取慎吾」は、かつては歌うたいでもあったようだ。彼の前に「歌を喰う」少女が現れる。彼女には目の前にいる歌い手がいま歌いだそうとした持ち歌を食べてしまう力がある。ある人気歌手も代表曲を奪われ、自殺すら考えるようになる。人気歌手の台詞が秀逸だ。「忘れたんじゃない。なくなったんだ! あの曲はオレのレゾンデートル(存在意義)なのに……」。忘れたわけではない。なくなっただけ。この言葉は、「新しい地図」の現実を想起させもする。そして、わたしたちは考えるはずだ。彼らの存在意義とは何か? 「香取慎吾」は、「あ」から始まる歌を歌おうとする。「き」から始まる歌を歌おうとする。「せ」から始まる歌を歌おうとする。だが、すでに少女に喰われてしまっていて歌うことができない。

 「喪失」という主題を、太田光監督の『光へ、航る』はさらに推し進める。ここでは草なぎ剛ふんするヤクザ者が妻と共に、いまはもうこの世にはいない息子の失われた右腕の行方を追って旅をする。人情と叙情にあふれたこのパートは、フィナーレに向かう道しるべでもある。だから、詳しくは書かない。ただ、これが沖縄という「彼方」で繰り広げられている点は重要だ。

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 3つの「喪失」は、最後の児玉裕一監督の『新しい詩』(読み:あたらしいうた)で、鮮やかな「回復」を見せる。それまで寸止めで終わっていた物語が「回復」によって再び芽吹いていく様は、ミュージカル仕立てということもあり、非常にエモーショナルだ。3つの孤立した魂が合流し、大きな河を形成し、やがて小さな光を灯していく様からは思いがけない感慨がもたらされる。

 これは、ある種のレクイエムであり、また、バースデイソングでもある。映画はあっという間に終わるが、そのとき、わたしたちは、ひとつの普遍を知るだろう。「喪失がなければ再生もない」と。

 「クソ野郎」という言葉が何度か反復され、クソそのものが画面にあらわれるときもある。だが、それらは吐き捨てたり、忌み嫌うようなものとしてではなく、あたかも「愛している」の言い換えのように映る。

 登場人物たちは過酷な現状に唾を吐くのではなく、「このクソ野郎!」と言いながら、愛着を表明しているかのようだ。

 夏目漱石は「アイラブユー」を「月が綺麗ですね」と訳したが、『クソ野郎と美しき世界』という映画には、そんな素敵な暗喩(あんゆ)がいたるところに詰まっている気がする。観客ひとりひとりによって、なにを見つけ、どう受け取るかは違うだろう。

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 個人的には『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』で香取慎吾が何度か浮かべる、透明で奥行きのある大人の微笑みが強く心象に残っている。まるで湖のように優しく、大きくわたしたちを待っている瞳。スクリーンで体験するにふさわしい、あのまなざしは、日常に疲れ傷ついているすべての人を救ってくれると思う。少なくとも、わたしは救済されたし、あの笑顔が見られてほんとうによかった。

 考えてみれば『ピアニストを撃つな!』の稲垣吾郎も、『光へ、航る』の草なぎ剛も、待つ男だった。これは、きっと、大切ななにかを「待つ映画」なのである。

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