イギリスの巨匠ケン・ローチ監督特集
今週のクローズアップ
1967年に長編映画監督デビューを果たして以来、労働者階級や移民たちの生活を乾いた視線でありながら決して突き放すことなく映し出してきたイギリスの巨匠、ケン・ローチ監督の新作『ジミー、野を駆ける伝説』が公開中です。社会派の作品にもかかわらず「映画」としてグイグイ一気に見せる、「これぞケン・ローチ」というべき名作を振り返ります。(文・構成:編集部 市川遥)
心がヒリヒリする青春物語とラブストーリー
青春映画と恋愛映画もローチ監督が手掛ければ容赦ありません。『SWEET SIXTEEN』(2002)が描くのは、ドラッグの売人の恋人スタンのせいで服役していた母親が刑期を終えて出所するのを機に、スタン抜きの家族で幸せに暮らそうと、新居の購入資金を稼ぐために犯罪に手を染める15歳のスコットランド人少年リアム(マーティン・コムストン)の過酷な青春です。
ごく普通の家族としての暮らしを手に入れたいだけなのにどうしようもなく悲劇へと突き進んでいくリアムの姿に、底辺で暮らす若者たちがその環境から抜け出すことがいかに困難であるかを思い知らされます。ラストは心が痛くて号泣必至です。
そして、イギリスの多文化社会を背景にした作品にして、ラブストーリーとしても一級品であるのが『やさしくキスをして』(2004)。スコットランド・グラスゴーを舞台にカトリックの高校で音楽を教えるロシーン(エヴァ・バーシッスル)とパキスタン移民2世のカシム(アッタ・ヤクブ)の恋をつづります。
異教徒との結婚を許さない厳格なイスラム教徒である父やコミュニティーからロシーンを隠すように付き合うカシムにはイライラしますが、後半彼がロシーンとの恋を優先させることを決めてそう宣言するや家族も何もかもがバラバラになるさまはあまりに壮絶で、イライラしていた自分が軽薄に思えるほど。恋は障害があるほど燃え上がる、なんて言っている場合じゃないのがローチ監督流です。
また、本作を味わい深くしているのは、ロシーンも移民(アイルランドからの)である点でしょう。カシムから「君は白人だからわからない」と言われたときの彼女の怒りは必見。異なる人種、宗教の人々が理解し合うということがどういうことなのかを突き付けています。
過酷な日々の中にあるユーモア
ローチ監督は社会の底辺で生きる人々の過酷な日々をただ突き付けるだけでなく、その中に存在するユーモアも切り取ってきました。『リフ・ラフ』(1991)では、1980年代のロンドンの建設現場に集まった日雇い労働者たちの悲惨な労働環境を示してサッチャーを糾弾しながら、どん底の状況でもユーモアを忘れずに生きていく彼らの日常を映し出しています。ロバート・カーライルふんする主人公の母親の葬儀のシーンは、お金がないため火葬されてまかれることになったのでしょうが、悲愴(ひそう)感などなくかなり笑えます。
炭鉱しか産業のないイギリス・ヨークシャーの小さな町を舞台に、家にも学校にも居場所のない少年(デヴィッド・ブラッドレイ)がひょんなことから手に入れたハヤブサのヒナを育てることで成長していくも、やっぱり訪れる悲劇を描いた『ケス』(1969)でも、学校でマンチェスター・ユナイテッドとスパーズ(トッテナム・ホットスパー)に成り切ってサッカーをするシーンでは、ゴールをすると画面にプロの試合中継のようにスコアが表示されるさまに思わずにやり。
それは、1920年代のアイルランドで内戦によって引き裂かれた兄弟の悲劇をつづったキリアン・マーフィ主演映画『麦の穂をゆらす風』(2006)でも同じです。アイルランド独立を目指してイギリスと戦った仲間同士が、締結された講和条約の賛否をめぐって殺し合うことになるという悲しさとやるせなさ、そして焼け付くような痛みを伴うラストに鑑賞後はしばらく放心状態になること請け合いの本作でも、ストーリーの転換点となる知らせを持ってきた子供がそのメモをどこにやったかわからず皆がわらわらするシーンはユーモラスです。ローチ監督のこの辺のさじ加減は絶妙という他ありません。
巨匠の新たな到達点
そんな『麦の穂をゆらす風』に続く1932年、庶民が理不尽に抑圧されていた時代にアイルランドで自由を説き、裁判も開かれずに国外追放となったジミー・グラルトンを題材にしたのが、現在公開中の最新作『ジミー、野を駆ける伝説』です。『SWEET SIXTEEN』や『麦の穂をゆらす風』が過酷な現実の“どうしようもなさ”を真正面からぶつけてくる作品だとしたら、本作は明るくさわやかな語り口の裏にそんな“どうしようもなさ”が流れているという、巨匠の新たな到達点というべき作品です。
一方、俳優を見いだすローチ監督の能力は健在で、映画初主演のバリー・ウォードが、平穏な生活を望みながらも闘いへとどうしようもなく突き動かされるジミーを好演。ジミーが失ったもの、そして遺(のこ)したものを思うと目頭が熱くなります。
また、本作のエンドクレジットにはCGIアニメーションスタジオであるピクサーの編集者たちへの感謝の文字が。これはフィルムを切ってつなぐという昔ながらの編集方法を取っているローチ監督が、デジタルの波に押されて製造されなくなった編集用の素材を切らしてしまい、提供してくれる同業者を探していたところ、ローチ監督のファンだったピクサーの編集者たちが名乗りを上げてくれたため映画が完成に至ったという経緯があるからです。エンドクレジットまで見逃せません。
映画『ジミー、野を駆ける伝説』は公開中