反核・脱原発がテーマ「アトミックカフェ・イン・ザ・パーク」開催 尾崎豊の伝説の熱唱から27年…福島第一原発への怒り爆発!
今月9日、代々木公園で脱原発を訴える音楽イベント「アトミック・カフェ・イン・ザ・パーク」が行われ、トークセッションに、ふるさと再生を目指す市民団体“つながろう南相馬”、“負げねど!飯舘”のメンバーが登壇し、震災から5か月が過ぎてもいまだに終わりの見えない故郷の現状を訴えた。
約2,000人の来場者が、ステージで繰り広げられた曽我部恵一BANDをはじめとしたアーティストたちのライブに酔いしれた後、ステージ横に設置された小さな特設テントでは、トークセッションが行われた。写真家の広川隆一氏が現在の福島の現状をスライドショーで報告したのち、映画『二重被爆』の監督である稲塚秀孝の解説で、イベントの名前の由来となった映画『アトミック・カフェ』のダイジェスト版が上映されると、“つながろう南相馬”、“負げねど!飯舘”のメンバーが登壇した。
「原発の話をすると、わたしは、はらわたが煮えくり返る思いなんです」、政府への怒り、東電への怒りを爆発させたのは、飯舘村の元副村長で、現在は“負げねど! 飯舘”の中心メンバーである長生増夫さんだ。飯舘村は福島第一原発から一部の地域を除けば、直線で30キロ以上離れている山村で、南相馬を経由すると、第一原発まで道のりで60キロ弱ある。11日に1号機が爆発、14日にはプルトニウムを燃料としたもっとも危険な3号機が爆発した。標高500メートル前後ある飯舘村の避難所は原発付近から逃れてくる人々であふれかえった。それから1か月後の4月10日、某大学の教授が「ここは安全です。マスクをしなくても子どもを外で遊ばせても問題ないです」講演を行なった。だれもが、「飯舘村は安全だ」と信じていた。だがその翌日、飯舘村は突如、全村が計画的避難区域に指定された。高い数値の放射性セシウムが、何も知らなかった村の人たちの頭上に1か月以上降り注いでいた。
長生さんは、「1か月以上もの間、東電は、政府は、いったい何をしていたんだ! と言ってやりたい」と沈痛な気持ちで声を荒らげた。そして最後に、「皆さんが知らない話をします。わたしの知り合いは、原発作業員をしています。3月11日、逃げていた原発作業員は見たんです。津波が来る前に、地震の直後、壁がポロポロと崩れていた1号機を。政府は、福島原発は津波のせいで爆発した、と言っていますが、そうじゃない。原発の寿命は30年と言われているのに、第一原発は、40年間も稼働していたんです。点検もずさんでした。2年前から、施工責任者は「原発あぶねえど」と言っていた。日本にはたくさんの数の原発がいまだに動いています。安全を確認するのは、福島原発を”安全“と言い続けてきた保安院なんです!」。飯舘全村が計画避難区域に指定された翌日、村で最高齢だった102歳のおじいさんは、自ら命を絶った。「村を離れるとき、わたしたちは、泣きながら『ふるさと』を歌いました。わたしたちが流した涙を無駄にしたくありません」とブースに集まった400人以上の若者に訴えた。
警戒区域、緊急時避難準備区域、そして変わらずに人が居住できる指定外地域と、30キロ、20キロを境に3つのエリアに分断されてしまった南相馬市に住む“つながろう南相馬”のメンバー、高村春美さんは、3月13日に5歳になる息子を、単身疎開させた。だが、2か月後に再会した息子は、笑顔をなくしていた。「息子は、昔のように笑わなくなっていました。5歳の子どもにとって、母親と離れた2か月間はきっと親が想像していたよりずっとつらかったんだと思います。とても悩みましたが、いまは息子と一緒に南相馬市に住んでいます。息子には個人被爆線量計ガラスバッチをつけ、ガイガーカウンターで放射線量を測りながら、行動しています」、高村さんがそう話したとき、会場は静まり返った。聞き入る人の心のどこかに浮かんだ疑問を察したかのように、「そこまでして、なぜいまだに南相馬市にいるんですか? と皆さん、きっと思っていると思います」と言った彼女は、声を震わせながら苦しい胸の内を明かした。「ふるさとを、捨てられないんです」。
「こんなにも、しんどい目に合うのは僕たちだけで十分です。わたしたちのことを、どうか忘れないでください。この脱原発運動、どうかブームで終わらせないでください」、震災から5か月、原発問題に苦しみ続け、これから先もずっと苦しみ続けるのは、福島県の人々だ。この日、代々木公園に響いた彼らの“真実の声”が、日本中に響くことを願ってやまない。
「アトミック・カフェ・フェスティバル」は、世界的な反核運動の火付け役ともなった、ソビエト対アメリカという大国の核対立のなか、“核は安全”と訴え続けた映画『アトミック・カフェ』の上映運動のなかで生まれた音楽イベント。第1回目のイベントは、1984年8月4日日比谷野外音楽堂において開催。デビュー当時の尾崎豊が7メートルの照明台から飛び降り、骨折しながら歌い続けた逸話を残した伝説のイベント。(編集部:森田真帆)