第14回『狩人の夜』(1955年)
名画プレイバック
初公開時には観客からも批評家からも全く評価されなかったのに、後に映画監督や俳優たちがお気に入り作として挙げるカルト作となった『狩人の夜』(1955)。60年経った今こそタイムリーに感じられる、早過ぎた傑作だ。(冨永由紀)
監督は、『戦艦バウンティ号の叛乱』(1935)や『情婦』(1957)などで知られるイギリス出身の名優、チャールズ・ロートン。彼が生涯ただ一度だけメガホンを取った作品(※『ザ・マン・オン・ザ・エッフェル・タワー(原題)/ The Man on the Eiffel Tower』(1949)で、ノンクレジットで共同監督として参加)は、フリッツ・ラング監督作品などのドイツ表現主義を思わせる美術と撮影監督のスタンリー・コルテス(『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942))によるファンタジックな映像で、悪夢の色を濃くした童話のような世界が展開する。
舞台は1930年代、世界恐慌下のウェストバージニア州。銀行強盗で逮捕された父親に盗んだ金を託された少年とその妹が、刑務所で父と同房にいた男に追われる物語だ。夫が死刑になり、心許ない母親の前に現れた男は彼女と結婚し、子供たちから巧みに金のありかを聞き出そうとするが、少年は妹を連れて逃げ出す。
どこまでも追い掛けてくる怪物のようなその男、ハリー・パウエルは両手の指にそれぞれ「LOVE(愛)」と「HATE(憎悪)」の入れ墨があり、伝道師のなりをしている。実際かなり信心深い。だが、信仰とミソジニー(女性嫌悪)をこじらせた彼の狂気は冒頭からはっきり描かれ、その禍々しさは疑う余地がない。ところが、主人公の少年・ジョンを除いて誰もが、ことに女性はみなハリーの魅力にころっと騙される。朗々とゴスペルを歌い、神について語りながら、実は寂しい女を殺して歩く男(1930年代アメリカに実在のモデルがいた)を演じるのはロバート・ミッチャムだ。トレードマークであるスリーピーアイズで見つめながら優しくささやき、ジョンの幼い妹・パールまで魅了する。その一方で、結婚した兄妹の母・ウィラ(シェリー・ウィンタース)には信仰を盾にモラハラで苛めた途端、用済みとばかりに命を奪う。
極悪非道なミソジニストのうえ、微かに小児性愛的傾向もうかがえる負の要素満載の悪役を、ミッチャムは異様なリアリティーを湛えて演じる。随所で見せる小物ぶりは滑稽ですらあるが、残忍性と間抜けの振幅の大きさが却って恐ろしい。彼はその後に『恐怖の岬』(1962)でも凶悪犯を演じるが、その前兆のような名演だ。
これは少々脱線になるが、『恐怖の岬』をマーティン・スコセッシ監督がリメイクした『ケープ・フィアー』(1991)で同じ役を演じたロバート・デ・ニーロの背中に大きな十字架と「JUSTICE(正義)」「TRUTH(真実)」の文字が彫られているのは『狩人の夜』及びミッチャムへのオマージュだろう。最近ではデヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』(2014)に、明らかに本作の一場面を模倣した水中シーンがある。
ハリーに親を殺され、執拗に追われる兄妹の道行きは「ヘンゼルとグレーテル」など童話に似たタッチだ。夜の川へボートを出し、命からがら逃げ出す中盤のシーンは、意図的な人工美と川面の水のゆらめきも相まって、より一層メルヘンチックな画面になる。うさぎやガマガエルたちが岸から見守る川を行く舟。子供たちを優しく包むように子守唄が流れる。途中、馬に乗って彼らを追うハリーのシルエットが遠くに浮かぶ場面の不穏さはたまらない。
やがて兄妹を乗せた舟は、孤児の少女たちと暮らす老女、レイチェル・クーパーのもとへと流れ着く。レイチェルを演じるのは、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915)、『イントレランス』(1916)などで知られるサイレント映画の大スター、リリアン・ギッシュ。両親を含め、すがりたい時にまるで頼りにならない大人たちばかりが登場する本作で、唯一、子供たちを護る存在だ。毅然としているが世間ずれした、大人にはないレイチェルの清らかさを表現できるのはギッシュをおいてほかにはいなかっただろう。劇中に登場する新約聖書マタイ伝の一節「偽預言者を警戒しなさい」ではないが、歪んだ悪魔=ハリーに対抗する天使の役割であり、兄妹を救済する圧倒的な善として力強い。ついにレイチェルの家までやって来たハリーが門前に立ち、不気味な影を落としながら、またしてもゴスペルを歌い出すと、なぜかレイチェルもそれに応えて歌い出す。後に控える直接対決より、何倍も奇妙で忘れ難いインパクトを放つ名場面だ。
それにしても、おとぎ話の体裁をとりながら、物語そのものは大人の弱さと生臭さが全開のサイコスリラーだ。貧困、欲、欺瞞に満ちた大人に囲まれて、妹と自分を守ろうと必死なジョンの純粋さは研ぎすまされていく。クライマックスで、前半のあるシーンが反復する形でジョンのトラウマが露わになる瞬間は、胸が張り裂けそうな気持ちになる。
公開当時に酷評の嵐だったのは、ロートンの感覚が時代の数歩先を行っていたこともあるだろう。しかし、それはむしろ、リアリズムで描くよりも鋭く厳しく、醜い本性を暴かれ、急所を突かれた思いの大人たちの拒否反応によるものだったのかもしれない。