岸恵子の官能的な仕草…平凡なサラリーマンの生活描く『早春』(1956)
小津安二郎名画館
戦争の傷跡も表面的には癒えているように見えるこの時代。小津安二郎監督が当時の若者向けに撮ったといわれる『早春』(1956)。今までの小市民映画を下地にサラリーマンの生活を描いた作品である。『麦秋』(1951)にも出演した淡島千景、東宝のスター・池部良、当時人気だった岸恵子を起用。特に岸のしな垂れ掛かるようなしぐさは官能的だ。
戦後、サラリーマンとして自宅と会社を往復する杉山正二(池部)。ちょっとしたきっかけから同僚の金子千代(岸)と関係を持ってしまう。密会を重ねる正二だったが、二人の関係が社内でうわさとなり同期社員に詰問されてしまう。やがて妻・昌子のもとに千代が現れて……。
サラリーマンとして経験のない小津が彼らに対して窮屈な印象を抱いていたことがよくわかる作品だが、本作は戦後の復興とそれに伴う重圧を抱えている彼らを表面的に楽しそうに描き、彼らの内心をうがって見せた結果なのかもしれない。当時の松竹の体制は、若者を中心とした観客向けの作品に力を入れており、この作品もそうした要請に応えてのものだった。
池部は知的な顔立ちで、豊田四郎監督の『雪国』(1957)をはじめとした文芸映画で憂鬱(ゆううつ)な役も多く演じてきた。そのほか佐伯清監督ほかの『昭和残侠伝』シリーズにも出演。本作への出演は、当初二枚目として起用された彼が演技派として頭角を現してきた時期でもあった。本作の役柄はストレスフルで、常に何かに翻弄(ほんろう)されている息苦しい立場にあり、作品全体にそのアンニュイな雰囲気を漂わせている。またこれに対応するように岸の演じる千代が女性的な強引さで物語に拍車を掛ける。ワイシャツに口紅といったおちゃめをさらりとやってのける大胆な彼女は艶っぽい演技で画面を華やかに彩っている。
正二が戦争時代の仲間を連れて家になだれ込んでくる場面は、小津作品にあるノスタルジーの中でも表面的に扱われ、妻の昌子(淡島)に「あんな兵隊だから日本は戦争に負けたんだわ」(井上和男編 小津安二郎全集 新書館)と一蹴されてしまう。事実、彼らはだらしなく泥酔して思い出を口実に酒を飲んでいるようにも見える。正二の仲間は皆、職工でサラリーマンである彼に羨望(せんぼう)の目を向けるが、正二の置かれた不安定な立場や葛藤を理解できる者は誰一人としていない。病に伏していた同僚・三浦(宮口精二)の死や、定年間際の老サラリーマン・服部(東野英治郎)との出会い、冷め切った夫婦関係。それらが一緒になって彼を苦しめる非常に重苦しい作品だ。結末に用意された救済が、家族の絆の深さをより現実味を帯びた形で提示する。小津作品の中では特異な物語の構造を持つ本作だが、ほかの小津作品同様に固定カメラによって人々をドライに描き出している。アプレゲール世代のスケッチとして、あるいは家族の再生の物語として。(編集者・那須本康)