ワン・セカンド 永遠の24フレーム (2020):映画短評
ワン・セカンド 永遠の24フレーム (2020)ライター5人の平均評価: 3.6
国家の規範から落ちこぼれた弱者たちの痛みと哀しみ
時は1969年、文化大革命下の中国。場所は広大な砂漠に囲まれた辺境の村。数か月に一度だけ巡回してくる国策映画が唯一にして最大の娯楽だった当時、併映のニュース映画に1秒だけ映る我が娘の姿を一目見ようと脱獄した悪質分子の男と、やむにやまれぬ事情から映画フィルムを盗もうとする貧しい少女の触れ合い。チャン・イーモウが『赤いコーリャン』の頃の原点に立ち戻った作品だ。そこに描かれるのは素朴な時代へのノスタルジーというより、共産党政府が求める模範的な市民像から落ちこぼれてしまった弱者たちの痛みと哀しみ。その不条理はイデオロギーが富とすり替わっただけで、現在の中国でも依然として存在するのではと感じさせる。
劇中の変貌が衝撃レベル。チャン・イーモウの発掘力にまた感服
メインとなるストーリーより、周辺のさまざまなエピソード、陽の当たらない人たちの風景が豊かで面白い。これは、そんな映画。
もちろん1秒だけ自分の娘が映ったニュース映画を目に焼き付けたい主人公の奔走は、時に過剰なほどドラマチックで笑い&涙なのだが、それ以上に、文革の1969年、中国の小さな村に暮らす人々が、いかに「映画」を求めていたか。その「背景」が大きなうねりのように心に迫ってくる。スクリーンやフィルム、映写室へのイーモウ監督の愛情がダダ漏れ状態なのであった。
そしてもう一人の主人公である少女。一本の映画の中で目を疑うほどの変身をみせた瞬間、われわれ観客も映画の魔法にかかった気分になってしまう。
今度のイーモウ・ガールも存在感抜群
『妻への家路』『単騎、千里を走る。』のヅォウ・ジンジーが共同脚本で、チャン・イー主演だけに、地味さは否めないチャン・イーモウ監督作。『至福のとき』を思い起こさせる、おっさんと少女の交流が描かれるなか、チョウ・ドンユィ感あるボーイッシュさから三つ編み&全力疾走で『初恋のきた道』なサービスカットもあるリウ・ハオツンの存在感が際立つ。そんななか劇中に流れる映画の主題歌「英雄賛歌」は近年『バトル・オブ・ザ・リバー 金剛川決戦』でもカバーされた“紅色経典”だということを踏まえてみると感慨深い。映画愛は感じられるが、“イーモウ版『ニュー・シネマ・パラダイス』”という触れ込みは大袈裟かも。
「モノ」としてのフィルムの美しさ
張芸謀版『ニュー・シネマ・パラダイス』的な会心の出来。彼が美学性に傾き過ぎない時のドラマ運びの巧さが活きる。映画館を仕切る「ファン電影」は、かつてフィリップ・ノワレが演じた映写技師アルフレードを彷彿させる小さな村にとっての映画の神様のようなおじさんだ。『英雄子女』(64年)の「ロバの腸」のように絡まった剥き出しのフィルムを大勢で救出しようと一致団結する光景など眩しく楽しい。
背景となる文化大革命への諷刺もぎりぎり(合法闘争的に)残る。ニュースフィルムの中の24コマ――わずか1秒だけ映し出された娘の姿という着想も良し。新星リウ・ハオツンが最後に見せる王道の「イーモウ・ガール」ぶりもやはり驚嘆。
フィルムが"モノ"であることの魅力
映画のフィルムが"モノ"だから生じるさまざまな出来事を描く。それは、人間が腕力で奪い合うことが出来る。地面に落として砂だらけになったときも、洗って乾かせば、キズが付きはするが撮られたものがすべて消えてなくなるわけではない。また、それが映す内容とは関係なく、フィルムを使って電燈を覆う傘が作られたりもする。そうした性質を持つモノを用いて撮られるものは、デジタルで撮られるものとは別ものなのではないか。そのように、この映画は問い掛けてくる。
その一方で、ここで起きる出来事のすぐそばにいつも砂丘があり、砂の中に落として見失ってしまうものも描かれて、常に物質というもののはかなさを感じさせ続ける。