作品評:『her/世界でひとつの彼女』

文=那須千里

 「あなたはコンピューターと恋愛できますか?」。そう聞かれたら、何のためらいもなく、まさかそんなと失笑するかもしれない。だけど本当はわたしたちが思うよりもずっと、それは身近なことになりつつあるのではないか。

 スパイク・ジョーンズの4年ぶりの長編となる『her/世界でひとつの彼女』は、そんな現代の現実と可能性をキュートに見つめる、彼らしい一風変わったSFラブストーリーだ。恋人はコンピューター、それも固有の本体を伴ったハードではなく、インストールさえすれば誰のどんなマシンでも使えるソフト、OSなのである!

 近未来のロサンゼルスで手紙の代筆ライターをしているセオドア。感動的な言葉で見ず知らずの他人の心を救えても、実生活では長年寄り添った妻に出て行かれ、離婚に向けてのカウントダウンが進んでいる。そんなセオドアの心を癒やしてくれたのは、OSとして彼の日々の生活をサポートするサマンサだった。メールが届けば知らせ、常にそばで見守り気遣ってくれる。体を持たない“彼女”が語り掛けてくる声をイヤホンで聞き、自然と言葉を返すセオドア。たとえサマンサの言葉が人工的にプログラミングされたものであったとしても、二人の間には確かなコミュニケーションが生まれ始めていた……。

 セオドアがサマンサをインストールしている携帯はローズピンクの二つ折りで横開き、どことなくレトロなデザインがとても愛らしい。その上部に付いたカメラのレンズがサマンサの目であり、そこをシャツの胸ポケットからちょこんとのぞかせて、二人は一緒に外を歩く。これがデートでなくて何だろうか?

 パソコンだってスマホだって、完全にオリジナルのモデルなどなく、基本的には大勢の人が同じ形と機能のものを使っている。だけどその中身は、登録されている電話番号も、画像フォルダの写真も、ダウンロードした音楽や動画も、人の数だけそれぞれに違う。もはや便利な家電の域を超えて、人間関係や趣味や思い出の多くを宿した自分の一部のような存在だ。なくしたら慌て、怒り、悲しみ、しばらくは立ち直れないかもしれない。それはまさに失恋に似ている。

 サマンサと通信できなくなってパニックになり、一人で街を転びながら走り抜けるセオドアの姿を横からとらえたカットが素晴らしい。彼の焦り、孤独、不安が一枚の構図で見え、『オールド・ボーイ』(2003)における長回し横移動のバトルシーンに匹敵するカットだと思う。

 何よりセオドアを演じるホアキン・フェニックスがとにかくかわいい。ホアキンがあんなにかわいいなんて! 柔らかくカールした明るい髪の色、口元にたくわえたヒゲ、丸みを帯びたフォルムのメガネを掛けた風貌はナイーブな雰囲気をまとい、『ザ・マスター』(2012)では、鬼気迫るものとして描かれていた繊細な心身の揺らぎが、恋する男のより人間味を帯びたものとして見える。

 サマンサの声は、“彼女”がそう名付けられていることからもうかがえるように、当初はサマンサ・モートンが演じるはずだった。だが撮影後により理想的なイメージを求めて新たにキャスティングされたスカーレット・ヨハンソンの、ちょっとかすれたハスキーボイスは、実体が見えなければ見えないほど存在感を増し、強烈な人格を感じさせる。中でもセオドアとサマンサが初めて結ばれるとき、そのいとしくも切ない声のやりとりにはぜひ耳をすませてほしい。

 人工知能が相手だったら、生身の人間とコミュニケーションを取る煩わしさや難しさを避けて、より快適な恋愛ができると思うかもしれない。だが心配もケンカもせず傷つきもしないということは それによってもたらされる喜びや幸せも得られないということだ。アーケイド・ファイアのサウンドに彩られたこの映画の世界は、相手が誰でも大切に向き合うことで生まれる人間の豊かさを、優しく見つめている。

筆者プロフィール:

那須千里(なすちさと)/ 映画文筆業。「キネマ旬報」「クイック・ジャパン - QuickJapan -」「acteur」などで執筆中。寄稿書として「アクターズ・ファイル 永瀬正敏」(キネマ旬報社)「映画秘宝EX 爆裂!アナーキー日本映画史1980~2011」(洋泉社)などが発売中。