文=相田冬二
私は映画製作背景の事実関係には一切興味がない。これから記すことはあくまでも作品の印象を通しての臆測、私見にすぎないことをお断りしておく。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はマーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオの監督・主演コンビにとって5度目のタッグになるが、これは両者のコラボレーションとして最高のものであるだけではなく、それぞれのキャリアの頂点に位置するものと考えられる。
まず初顔合わせの『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)では主導権がスコセッシにあった。続く『アビエイター』(2004)ではレオがかじを取った。そして『ディパーテッド』(2006)では二人そろってこの企画に「雇われ」、さらに『シャッターアイランド』(2010)では確信犯的にプロジェクトへの「奉仕」に徹した。4作目はスコセッシの映画作家的野心が先行していたきらいもあった。となれば今度はレオの番である。
『アビエイター』との類似が見出せる本作は、レオの俳優的野心がどこにあるかが明瞭である。彼は実在の人物を演じたいのだ。より正確に言えば、彼は実在の人物を再構成することによって、実話というものを解体しようともくろんでいる。それはほとんど、映画の演じ手というより、映画の作り手としての批評性と言えるだろう。現在のレオは熱演や妙演の類いには一切興味がなく、作品全体に敷きつめられた細胞の一部として振る舞うことこそを目指している。だから彼の表現はもはや、他の俳優たちの一般的な演技と比べてもまったく意味をなさない。
演技者としてのレオの愛すべき美徳の一つは、人物が憤りを表明したときにこそ最良のイノセンスがこぼれ落ちる瞬間だろう。バズ・ラーマンとの『華麗なるギャツビー』(2013)ではもちろん、クリント・イーストウッドの『J・エドガー』(2011)でさえ隠そうとはしなかったこの資質を、レオは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で完全に封じた。主人公が爆発するシークエンスはいくつかある。が、そこでイノセンスは表出しない。逆だ。彼の感情がスパークした瞬間、映画は笑いに転じてみせる。ここでスコセッシが(ロバート・デ・ニーロとの今のところ最後のジョイントである)『カジノ』(1995)以来となる「人生におけるあらゆる出来事は空砲である」とのテーゼを、演出によって正確に映し出す。そのピークはファレリー兄弟もはだしで逃げ出すような後半の酩酊(めいてい)シークエンスにあるが、映画はここをクライマックスにすることで、勝者も敗者もいない地平をむき出しにすることになる。
レオはもともと、あらゆる人物が内部にはらむ「共感」と「拒絶」への希求を絶妙の(つまり彼なりの)ブレンドで見せる役者だった。誰もが思う「自分のことを分かってほしい」と「分かるヤツがいるわけがない」が分かちがたく結び付いたキャラクターを完璧に構築していた。その意味で彼は(スコセッシと共闘する前から)デ・ニーロの正当な後継者だったわけだが、この新作ではもはや観客に「共感」もさせないし「拒絶」もさせない。唯一無二(ゆいつむに)の次元に立っている。
つまり、私たちはレオが演じる人物を、好きでもなければ嫌いでもない状態にある。にもかかわらず、ただひたすら見守るという快楽に身を任せることになる。主人公に慈悲を与えるでもなく、罰するでもない立場――つまり、この映画を見つめる者は、等しく「神」になれる。レオはスコセッシとの「共同演出」(と、私は考える)を通して、ついにそのようなビジョンを達成したのだ。
相田冬二(あいだとうじ) / ノベライザー、ライター。「週刊金曜日」「UOMO」「T.」などの雑誌や日本映画の劇場用パンフレットなどで執筆中。ノベライズに『キサラギ』(角川文庫) 『パンドラ』(幻冬舎文庫) 『息もできない』(ACブックス) 『RIVER』(鉄人社)など。最新作は2月28日発売の『緊急取調室2』(幻冬舎文庫)。現在、二冊のノベライズを同時進行中。楽天エンタメナビにてSMAPの活動を縦横無尽に批評する連載「Map of Smap」を毎週火曜日に更新中。