略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
デイヴィッド・バーンが11人の多種多様なパフォーマーたちとグレーのスーツを纏って、裸足のまま歌い、演奏し、踊る『アメリカン・ユートピア』は批評的視座に立った、「making senseのやり直し」なのかもしれぬ。「意味付けなんかやめろ」とは言えない状況になってしまったのだ。
映画に限らずその作品が「いつ生まれたのか」はとても重要なことである。むろん本作はトランプ政権下に発表された。縦横無尽に動き回り、ラストを飾る「Road To Nowhere」ではステージからも解き放たれ、デモンストレーションのマーチ(行進)となってゆく。バーンと監督スパイク・リーの「ええじゃないか」運動の何と粋なことか。
四六時中ラリっ放し、天才にして放蕩な詩人ムーンドッグ役に同化し、無双状態のマシュー・マコノヒー。観ると思わず「♪ラリホーラリホーラリルレロン」なんてご陽気な鼻歌が飛び出してしまう。が、乱痴気騒ぎの連続に挟まれる美しい夕陽がどこかもの哀しくて、まるで“自由の刑”に処せられたかのよう。
元アンファンテリブル(恐るべき子供)、監督&脚本ハーモニー・コリンが目指した「一期は夢よ、ただ狂へ」的展開はシナリオ学校では0点を食らうこと必至。しかしそれが、あれよあれよと極上の時空間を達成してしまう映画の不思議。絶対に日本では作れないが、万が一、企画が通ってしまったら主役を演れるのは吉田新太しか思いつかない。
映画の磁力がスゴい。観ているうちに、没入したこちらの視神経が剥き出しになってしまうかのよう。演劇界の重鎮、劇作家のフロリアン・ゼレールはこの初監督作で室内劇にこだわりつつ、舞台では出来ないことに多々挑んだのだ(役者陣にはリハーサルを一切行わなかったとか)。
劇中、アンソニー・ホプキンスが実際に好きなビゼーのオペラ曲「真珠採り」(シリル・デュボワのテノール版)を流してみせ、認知症で脳内がバグっていく主人公と本人とを二重写しに。映像的にはデヴィッド・リンチやロマン・ポランスキー経由で、『去年マリエンバートで』(61)的迷宮へといざなってゆく。それにしてもだ……ラストに映るものの残酷な美しさよ!
自分の人生を、今まで常軌を逸した方法で支配してきた“母親”からの逃避と乗り越え。スタンダードだが的確なスリラー演出の積み重ねのもと、闘う主人公の「自立への意志」がクローズアップされてゆく。
下半身麻痺で車椅子ユーザーのヒロインの覚醒をいっそう後押しするのは、希望する大学の「可能性は無限」というメッセージだ。何だかいかにもご都合主義のようだが、それを確信するシーンがある。絶体絶命、閉じ込められた部屋から決死の脱出を試み、止むを得ず体を酷使するや、(脳の回路が刺激されたのか)麻痺足のつま先が微かに動く。そして彼女は劇中、唯一、一瞬だけ心底微笑むのだ。この1ショットを、どうか見逃さないで。
グローバル資本主義流の“帝国”を築き上げた男の半生に迫る「戯画」である。学生時代から、いかさまトランプを得意とし、つまりその正体は巧妙な詐欺師。ギリ合法的だが限りなくアウトに近い。誕生パーティを彩るのは、特注のコロッセオ(古代ローマの円形競技場)なのだけれども、ベニヤか合板で安く作られているのがこの男らしい。
要はから騒ぎ、ひたすら空虚な宴で、そこに男の「現在までの足跡」が織り込まれ、“コロス”たる女性スタッフとお抱え伝記作家が交わす「私は奴隷よ」「でも奴隷は反抗できる」という会話が苦く舌先に残る。が、主演スティーヴ・クーガンとウィンターボトム監督のコンビ作としてはいささか“毒”が薄味か。