略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
若い、というよりもまだ幼な気な主人公、翔太とタカラの“アオハル”な逃避行。したくても自己肯定できない二人のバックボーンの違い、温度差が映画になだらかな角度をもたらす。虚勢がだんだんと空回りし、素の優しさが表面化する翔太。一方タカラは空っぽだった心に“エーテル”が堆積していき、地に根を張っていく。
二人の、その一挙手一投足がガリガリっと観る者の胸に引っかき傷をつけてやまない。ポイント(のひとつ)は逃避行の果てに、ベッドを共にする場面。しかし単なるラブシーンではない。けれども確かに愛が交歓される。外山監督は翔太とタカラ、W主演の村上虹郎と芋生悠をとことん突き放しながら、かたく強く抱きしめている。
1958年のニューポートでのフェス、JAZZジャイアンツたちの競演が楽しめる歴史的名画の4K版。時代の変わり目で、R&Bの真髄“ビッグ・メイベル”ことメイベル・ルイーズ・スミスやキング・オブ・ロックンロール、チャック・ベリーも登場する。
当時は新進気鋭、のちの写真界のレジェンド、監督バート・スターンのカメラアイはすこぶるクール。最高のタイトルバック。ヨットレースが鮮やかに挿入されるセロニアス・モンク→ソニー・スティットの流れ。一部別撮りした観客席の挟み方など全体的に“ルック”が市川崑の傑作ドキュメンタリー『東京オリンピック』みたい、と思ったのだが、すでに小西康陽さんがそう評してました。降参!
ファーストシーンを観たら……いやその前の、まだ黒みにクレジットとタイトルが浮かび上がるまでの早朝の気配、どこか不穏な状況音を耳にしたらもう最後、画面から目が離せなくなる。今も続くシリア内戦。我々は舞台のアパートの一室に“拉致”され、そこで「戦場下の日常」をある一家や隣人たちと共に味わうことなる。
それは、外で爆発があっても赤子が泣かない狂った日常だ。改めてタイトルに注目しよう。『シリアにて』。ヒア&ゼア、こことよそ。なぜ我々は閉じ込められ、恐れ慄く人々を安全地帯から眺めているのか? タイトルが「東京にて」「大阪にて」……等に変わってもおかしくはない、そんなパラレルワールドを思わず想像する。
大林監督の自分史と、日本の戦争史、世界の映画史などが組み込まれた「シネマ・ゲルニカ」の最新形であり「A MOVIE」の到達点。その「玉手箱」を開ければ、“時間の奔流”が飛び出す。白髪にこそならないものの、我々の身と心は浦島太郎のごとき衝撃を擬似体験するわけだ。
本作のために見出された吉田玲演ずる“時をかける少女”の、シーンをまたがってリフレインされる「ふふッ、ふふふふッ」という笑い声が大林映画的な“幻想と怪奇”のエッセンスをほとばしらせる。が、かつて新人だった“時をかける少女”原田知世に、戦争で亡くなってしまった監督の知人がダブらされていたことを思うと、また違った感慨が沸き起こるだろう。
完成度の高い舞台劇をいかに映画にするか。常に画面の中に、登場人物の感情のさざ波状態をつくるのだ。すると見えない野球の試合が、映らないあれやこれやが、奇跡的に目の前に見えてくる。
人の動作には必ずワケがある。この映画はそれを示すことを徹底している。そして、ここぞという場面で野球場の傾斜が生み出す、胸熱な視線のやりとり! 城定監督の演出、編集の巧みさ、役者陣の好演と空気感をも立ち昇らせる音響(さすがの山本タカアキ仕事)で、さざ波はビッグウェーブに。観客の想像力を刺激しまくる豊潤な75分間!