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ベートーベン作曲の「第九」の日本初演の地・板東俘虜収容所を舞台にした『バルトの楽園(がくえん)』。第一次大戦中、敵国のドイツ人捕虜たちに対し、人道的な扱いをし、のちに「世界のどこにバンドーのようなラーゲル(=収容所)があったでしょうか」と言われたほどでした。
そんな奇跡のような実話を基に映画化された『バルトの楽園(がくえん)』をより楽しむための5つのポイントをご紹介します! |
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徳島県の観光名所といえば、鳴門の渦潮が有名。板東俘虜収容所はそんな風光明美な鳴門市に第一次大戦中の1917年に造られました。ここへ送り込まれるのは、中国・青島(チンタオ)の戦いに敗れ、捕虜となったドイツ兵。その数、約4700名でした。
当時、全国に12か所あった収容所は2年後6か所に統合され、劇中では青島(チンタオ)の戦闘を指揮したハインリッヒ総督(ブルーノ・ガンツ)をはじめ、海軍上等水兵カルル・バウム(オリバー・ブーツ)、海軍一等水兵ヘルマン・ラーケ(コスティア・ウルマン)らが移送されました。彼らは囚人並みの扱いと劣悪な環境を覚悟していたのですが、板東で待ち受けていたのは楽隊による温かい歓迎。それはすべて松平健演じる松江豊寿(まつえとよひさ)所長の「敗れたとはいえ、祖国のために戦ったのだから」という、ドイツ人捕虜を人道的に扱おうとした方針のあらわれでした。 |
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敷地面積1万2000坪もあった板東俘虜収容所。驚くことに、捕虜たちにはソーセージをさかなにビールを飲む自由がありました。所内には、ドイツ人捕虜が寝起きする居住棟と、彼らが運営する酒場に家具屋、仕立て屋、鍛冶屋、靴屋、写真館など、約80軒の店舗が立ち並び、まるでドイツ人村のようだったそうです。劇中では、そんなにぎやかな様子が描かれています。
そして、一度は脱走を試みたものの、傷つき地元民に助けられて収容所に戻ってきたカルルが松江所長に勧められて腕を振るうことになる製パン所も所内にありました。鉄条網に囲まれていたとはいえ、松江所長は捕虜たちの人権をできる限り尊重し、彼らの自由を認めていたからこそ、後年、「模範的な収容所」と言われたのでした。 |
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2年10か月間、開かれていた板東俘虜収容所。そこでは捕虜たちが発行していた所内新聞“ディ・バラッケ”がありました。毎週日曜日に発行され、24ページほどの内容。そこにはヨーロッパでの戦況から収容所内外の出来事の様子などが掲載され、“ビィア・バンドーエル(=われらバンドー人)”というコラムもありました。
劇中では、ヘルマンが新聞記者として活躍。まだ年若く好奇心旺盛な彼がカメラを持ち、所内の様子や板東の人たちの生活を取材する姿が描かれています。 |
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松江所長の寛容な待遇によって、捕虜たちは収容所内でも最大限の自由を楽しみ、地元民とも交流をしていました。おかげで、板東にはさまざまなドイツの文明文化がもたらされました。特に盛んだったのは音楽。捕虜たちによる交響楽団は所内だけでなく、収容所近くにあった霊山寺(りょうぜんじ/お遍路さんで知られる四国八十八か所の一番札所)でも練習したことから、地元民や音楽を愛する青年たちと交流を深めることができました。
この当時、お寺で海外の音楽が流れるなんて、板東の人たちの心の広さがうかがえます。また1918年には、この霊山寺を中心に、2週間「俘虜製作品博覧会」が開催されました。ドイツの優れた技術で作られた工芸品やソーセージやハム、ベーコン、菓子などを披露して、さながらドイツ博覧会のようなにぎわいだったようです。 |
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盛んだった音楽活動。捕虜たちによって、いくつかの交響楽団が結成され、板東だけでも100回以上のコンサートが開かれたといいます。これほど音楽活動が熱心に行われた背景の1つには、遠い異国の地に送られたドイツ人捕虜たちにとって、次第に悪化する戦況と、いつ故国に帰ることができるのか見通しが立たない毎日は不安でたまらなかったようです。そんな沈みがちな心を彼らは音楽で支えていたのでした。
そして1918年6月1日に、所内の音楽堂でベートーベン作曲の「交響曲第9番 歓喜の歌」が日本で初めて全曲演奏されました。今や、日本の年の暮れを締めくくるイベントの1つになった、「第九」は、この板東の地から広まったのです。劇中では、第一次大戦が終結し、捕虜から解放されたドイツ人たちが松江所長や地元・板東の人々への感謝を込めて「第九」を披露するという感動的なシーンで締めくくっています。 |
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