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『バルトの楽園(がくえん)』で、松平健が演じる松江豊寿所長。収容されている捕虜たちから「模範収容所」と呼ばれた板東俘虜収容所。この収容所の所長であった松江豊寿は「武士の情け」を重んじて、敗者を人間として平等に扱った実在の人物です。
松江所長は、幕末の動乱の最中、最後まで幕府側について、朝廷の敵という汚名を着せられた会津若松出身。新政府ができたあとも、たびたび「会津出身」ということでつらい仕打ちを受けた松江は、みずからの経験を通して「敗者の悲しみ」というものを知ることになりました。「敗者の悲哀」を知っている彼だからこそ、板東俘虜収容所のような「模範収容所」が作られたのではないでしょうか?
「捕虜は、愛国者であって犯罪者ではないので人道的に扱うべき」という松江所長の主張は、最後まで幕府に対して忠誠を誓いながらも「敵」という汚名を着せられ、まるで犯罪者のような扱いを受けたつらい過去によってつくられた「武士道」精神にあふれた主張だったのです。 |
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板東俘虜収容所で過ごした捕虜たちは、鳴門に住む人々の人柄、そして「松江豊寿」という人間に深い愛情を持ちながら解放後、日本を去っていきました。なかには、そのまま日本に残った捕虜もいたそうですが、ドイツに帰国した兵士たちの中には板東俘虜収容所での生活を懐かしむ人も数多くいました。
1934年には、収容所にいたある兵士の郷里の戦友たち15名がなんと「バンドーを偲(しの)ぶ会」という会を結成。戦争の捕虜が自分たちの収容所を「しのぶ」会だなんて、間違いなく彼らが初めてのはず! 当初は、十数人の参加者しかいなかったこの会は、松江所長を慕う元ドイツ兵たちの力で80名を超える「バンドー会」と発展したのです。彼らは、鳴門の人々、松江所長への感謝の気持ちをいつまでも持ちつづけ、大阪万博が行われた1970年に板東の地を再訪。1956年に亡くなった松江所長との再会は辛くも実現しませんでしたが、松江所長が生んだドイツと鳴門との親交のきずなは、90年近くたった現在も引き継がれ、2001年には鳴門市のオーケストラがドイツで、「『第九』里帰り公演」を上演するなど、数々の親交行事を行っているのです。 |
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本作で、ドイツのブラピと言われている人気俳優オリバー・ブーツが演じている海軍上等水兵カルル・バウムは、ある人をモデルにしているそう……。それは誰でしょう?
謎は、名前に隠されています。日本で最初にバウム・クーヘンを伝えた人、カール・ユーハイムその人なのです。カール・ユーハイムといえば、ドイツ菓子で有名な“ユーハイム”の創始者。カールは1920年に捕虜から解放された後、妻と共に日本に永住することを決意すると、数々の苦難を乗り越えながら神戸・三宮に「ユーハイム」のお店を立ち上げたのです!
実在したスゴイ人たちは、カールだけではありません。皆さんは、ワンダー・フォーゲルという名前を聞いたことがありますか? 大抵の大学のサークルにある「ワンダー・フォーゲル」。これは「山岳探検部」というものらしいのですが、なんと、この「ワンダー・フォーゲル」の創始者であるカール・フィッシャーも板東俘虜収容所にいたという文献が残っています。板東俘虜収容所の自由な、雰囲気の中で2人の偉人のイマジネーションが刺激されたのかも!? |
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当時の日本の状況の中、これだけ捕虜に寛大な収容所をつくるというのは容易なことではありませんでした。もちろん捕虜からは、「ムスター・ラーゲルの父」として慕われていた松江所長でしたが、実際は板東俘虜収容所に対する、強い反発も多くありました。特に、当時の上層部からの風当たりは強く、松江所長本人も、たびたび上層部と収容所の方針に関しての意見を衝突させていたといいます。会社で言えば、結構うっとうしい存在の「窓際族」扱いだった松江所長……。それでも、自分の信念は決して曲げない松江所長は、収容所の捕虜たちをまさに「体を張って」守っていたのではないでしょうか?
そんな、サムライ・スピリットにあふれた松江所長、収容所閉鎖後は、故郷の会津若松に戻り、大正11年には会津の若松市長に就任しました。そこでも、「武士道」のまっすぐな精神を貫き通した松江所長は、戊辰戦争で多くの少年兵が自害した飯盛山にある白虎隊墓地広場の拡張に尽力しました。坂東で、強い武士道精神をもち理念を追いつづけた松江所長のサムライ精神は、いつまでもいつまでも続いたのでした……。 |
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