『明日の記憶』渡辺謙 単独インタビュー
取材・文:前田かおり 写真:FLIXムービーサイト
広告代理店に勤め、仕事も家庭も順風満帆だった中年男性が突然、若年性アルツハイマー病に襲われ、人生のすべてが一変していく。第18回山本周五郎賞を受賞した荻原浩の同名小説を映画化した『明日の記憶』。次第に記憶を失っていくという主人公の佐伯雅行を演じたのは、ハリウッド作品で活躍の目覚しい渡辺謙。『SAYURI』の撮影中に出会った原作にほれ込んで、自ら映画化の企画を進め、エグゼクティブ・プロデューサーも務めている。そんな渡辺に、久しぶりの日本映画にかける意気込みと作品への熱い思いを語ってもらった。
観客に届けたいから、自ら演じる
Q:原作にほれ込んで、主人公を演じたいと思うほど、原作に魅力を感じた理由は?
衝動とか、そんなに燃えたぎるものではなかったんですが、ただ、本を読んだ後、心の中がすがすがしく温かくなれたんですよ。まあ後から考えると、ちょうどその年に『エターナル・サンシャイン』とか、『きみに読む物語』という作品があって、両方とも、記憶の喪失感をモチーフにして人生を回顧するという作品でした。それらが自分の心に印象的に残っていたことも関係あるかもしれませんが、とにかくその時は映像表現に携わっている人間として、今、観客に届けたい作品はこれだ。だから、演じたいという思いがわき上がってきました。
Q:監督を『ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer』や『トリック』シリーズの堤幸彦さんに決めたのは渡辺さんだそうですが、その理由は?
難病ものを描いたとしても、よくありがちな、つらく悲しく泣いて終わりという作品にはしたくなかったんです。実際、僕は原作を読んだときにそんな感じはしませんでした。それで、作品を作るなら、現代を描かなければいけないと思ったんです。ただ、絵だけでなく、現代のビート感も描ける監督は誰だろうと考えたときに、堤さんしかいないと思いました。
Q:堤さんとはテレビドラマ「池袋ウエストゲートパーク」で仕事されてますよね。
ええ。堤さんって、作品自体は普通と違うアングルから人間を描いたりする人として認知されていますよね。でも、実際、現場で堤さんに役について尋ねてみたら、人間を的確に見る目を持ってらっしゃったんですよ。だから、難病ものにありがちな描き方とは、明らかに違うものを描いてもらえるんじゃないかと確信しました。
いわゆる“泣く映画”とは違う
Q:今、映画やテレビドラマで難病ものがはやっていて、泣く映画として作られています。でも、それとは違うものを目指されたのは、かつて大病をされた経験があるからですか?
そうかもしれませんね。映画ではエモーショナルな部分をピックアップしがちですが、僕は日常を描きたいと思いました。だって、病になろうとも、また次の日が来る。腹も減るし、風呂も入るし……。そうやって生活をしていかなければならないんですよ。僕は重たいテーマであればあるほど、日常がちゃんと描かれていなければ、単なる絵空事で終わってしまうと思ったんです。だから、脚本作りの段階から、主人公の日常をまず念頭においていました。
Q:でも、それではいわゆるベタな泣きを期待して観に行ったら、泣けなかったという観客が生まれる心配は?
実は、佐伯と同じぐらいの年齢の男性が試写でこの作品を観てくださって、「映画館では泣けないな。泣くんだったら、家に帰ってから泣く」と言われたんですよ。つまり、映画館で観て泣いて終わりという映画ではなくて、心の中に残るような作品に育ってくれているので、僕らにとっては何の不安もありませんね。
撮影中は常に主人公の目線
Q:若年性アルツハイマーの役を演じるにあたっての役作りは?
現実にこの病気と向かい合っている方々、サポートをしている家族や医療関係の方々がいらっしゃる中で、何でこんな映画を撮ったのかというような作品にはしたくなかった。だから、できるだけリサーチしましたし、患者さんや家族の話も聞きましたね。
Q:アルツハイマーの症状を演じながら、自分自身が、「この、物忘れはもしかしてアルツハイマーでは?」というように思ったことはありませんか?
たとえば、映画の最初のほうで、佐伯が仕事相手との飲み会の席で有名なハリウッドスターの名前を思い出せなくなるシーンがあります。それは誰だって思い当たるような例なんですが、作品に入ったときから、僕は佐伯という男の目線から物を見るスタンスになっていたから、もう自分ではなくなっていたんです。ストーリーが進むに従い、佐伯が今、何をどう感じているかをダイレクトに感じていたので、「あれ、このセリフはリアルじゃない」などと思うこともしょっちゅうでした。そのたびに堤さんと話し合いながら、作品を作っていきました。
Q:ラストはただ悲しいだけの終わりではないと考えていいんでしょうか?
そうですね。観終ったときに苦しい現実しかなくても、それでも、今、生きていることの喜びだけは感じるような終わり方にしたかったんです。だから、僕らは救いのある終わりになっていると思っています。
今後のビジョン
Q:ハリウッドと日本で仕事をされている現在、俳優としてこれからはどうしていきたいと考えていますか?
ん……(笑)、あまりビジョンってないんですよ。ハリウッドで仕事をするようになったといっても、1作1作の毛色も違えば、監督やキャストも違う。だから、僕としてはハリウッドはハリウッド、日本は日本という感覚ではなくて、ただ1つ1つの作品を積み重ねていくという意識しかないですね。とにかく今、見えている車窓に対して、自分に何ができるかということを考えているだけですね。その乗車チケットはもらったものの、どこにたどりつくか全然分かっていない。ただ次の駅(=次回作)だけはインフォメーションされている感じです。
Q:自分で目指す方向や終着点はないのですか?
全然ないですよ。何に向かっているのかも、分からない。どこかの駅でぶらっと降りてしまって、しばらくは何もしないってこともあるかもしれないし、次は鈍行列車に乗るかもしれない。あるいは次に渡されるチケットは飛行機かもしれないし。今はクリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』を撮り終えたばかりで……、次は全く白紙なんです。それはもう冗談抜きで(笑)。そんなもんなんですよ、俳優なんて。3年先までスケジュールが決まってるなんて、息が詰まって生きていけないですからね(笑)。
キリッとダンディーなスーツ姿でオーラを漂わせながら現れた渡辺。それまでハリウッドスターとして、何かもう手の届かない存在になってしまったように思えたが、実際に目の前で語る彼は、とても気さくで撮影にも気軽に応じてくれた。「そんなあなたの後を日本の俳優たちが、目指していますよ」と言うと、ニコっと笑って、「僕は誰かのために、演じているわけじゃない。今、自分ができることをやっているだけなんですよ」とさらりと語って立ち去る姿は、まるで映画のワンシーンのように思えた。
『明日の記憶』は5月13日より丸の内TOEI1ほかにて公開