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アン・リー監督が過去の作品を振り返る!ヒース・レジャーは緊張感のある俳優だった!

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アン・リー監督
アン・リー監督

 現在開催されているニューヨーク映画祭のダイアログ・セッションで、映画『いつか晴れた日に』や『ブロークバック・マウンテン』などでおなじみのアン・リー監督が、過去の作品や映画界に入る経緯などをQ&Aで語った。

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 同イベントは、バラエティ紙で31年間批評家を務め、現在はハリウッド・リポーター誌の記者であるトッド・マッカーシーが司会者として、台湾出身のリー監督をインタビューしたイベントだ。

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 子どもの頃についてリー監督は「台湾で育った当時の僕は、芸術に関しては全く疎く、むしろ学問に励み、社会のために役に立つような人物になろうと思っていたんだ。だから従順な子どもで、決して反抗的な子どもではなかった。それに父親が僕の通っていた高校の校長をしていたから、僕の子どもの頃は実につまらない人生を送っていたと思うよ(笑)」と語ったが、ではどうして映画界に入ろうと思ったのか。「大学の受験に落ちたため、急きょ国立芸術学校に入ったんだ。そこで、初めてステージに立ったときに演劇に刺激され、当時18歳だった僕は、アートの道を進もうと思ったんだ」と明かしたリー監督は、その後アメリカのイリノイ大学とニューヨーク大学で学んでいて、ニューヨーク大学では一年上にスパイク・リー監督がいて、彼の映画の撮影も手伝ったこともあるそうだ。

 今まで、あらゆるジャンルの作品を手掛けているリー監督だが、常に新たなアプローチを模索している結果そうなったのだろうか。「実は自分自身が、どんな映画監督かよく理解していないんだ。ある人は僕のことを巨匠なんて言ってくれるが、巨匠が違った作品ばかり撮っているのも変な感じもするだろ。ただ僕は好奇心が旺盛なため、自分のキャリア自体がフィルムスクールに通っているような感じで、だから銃の使い方や馬の乗り方、ワイヤーアクションなど、映画に必要なことを学ぶ過程が好きで仕方がないんだ。例えば、映画『グリーン・デスティニー』では、香港のアクション映画に携わる重要な人物たちから学び、その一方でアメリカのアクション映画では、いかに安全に素晴らしいアクションを撮るかを重視している。それぞれのジャンルで、あらゆるやり方を学ぶことも良いと思っているんだ」と明かした。

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 『いつか晴れた日に』について「撮影当時、僕の英語はブロークン・イングリッシュだった。あの映画を撮った後、このようなイギリス文学を扱った映画が制作できるなら、何でもできると思ったくらいだよ(笑)。実は、この映画を撮影するかなり前の1979年の夏から半年間、ロンドンの演劇プログラムで学んでいたんだ。そこでは演劇だけでなく、どのように映画を制作すれば良いかも学んでいたんだ。そんな経験があったために『いつか晴れた日に』の撮影前に、どのような衣装、書物、さらに美術館から情報を得て、この映画の設定である19世紀を作り上げていくか決めることができて、全く戸惑うことがなかったんだ」と語った。

 リー監督作品のほとんどをプロデュースし、フォーカス・フィーチャーズのCEOでもあるジェームズ・シェイマスについて「台湾で開催されたある脚本家のコンテストで僕が優勝したときに、幾つかの制作会社が僕の映画を製作すると言ってきたが、僕はその賞金だけ貰って自ら撮影することを決めたんだ。ところがあるとき、ニューヨークで独立系映画を製作するプロデューサー、テッド・ホープをある共通の友人から紹介してもらい、そのテッド・ホープがたまたま、ジェームズ・シェイマスの制作パートナーだったんだ。当時の僕らはお金も大してなかった。ジェームスは、あのときはコロンビア大学で教鞭をとっていて、一方テッドはまだ28歳で、これから映画のプロデューサーになりたいということで、彼ら二人は意気投合して、『グッド・マシーン』という制作会社を立ち上げ、その制作会社が僕のデビュー作『推手』を製作した。そしてこのデビュー作が台湾で成功を収めたことで、次の作品『ウェディング・バンケット』へと続いたんだ」と述べた。

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 『グリーン・デスティニー』について「僕は台湾ではキン・フーの映画を観て育ったんだ。いわゆる伝統のある武侠映画作品だね。その後ブルース・リーなどの身体だけで戦う俳優が登場して、彼らからも影響を受け、さらに僕は女性中心のオペラ映画なども当時観ていたんだ。だから、『グリーン・デスティニー』は僕が育った環境で観ていた映画の集大成みたいのものなんだよ。そのため、いろいろな要素があるから、ジャンル映画とは言えないと思うんだ」と答えた。

 『ハルク』について「僕があの映画の製作にかかわった時点では、今のようなコミックの実写化という形態が確立していなかったんだ。僕自身は、あの映画はサイコスリラーとして描いたつもりなんだ。特に60~70年代のイタリア作品に影響を受けたものだ。ただ、僕の作品よりも前に『スパイダーマン』(この映画は2002年に公開されたが、この時点で『ハルク』は撮影に入ったばかりだった)が製作され、コミックの実写化というジャンルができ始めたんだ。だから、配給会社も『ハルク』を『スパイダーマン』のようなスーパーヒーロー作品として売り出そうとしていたことが間違っていたと思う。最終的に興行を通して、配給会社が金を失うことはなかったが、後に今のようなスーパーヒーローのジャンルが生まれるとは予想できなかったね」と語った。

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 『ブロークバック・マウンテン』について「ヒース・レジャーは緊張感のある俳優だった……。彼は撮影現場でも、あのキャラクターのままでいたために、彼が撮影現場で多少文句を言っても、何を言っているか僕には正直よくわからなかったよ(笑)。ただ、このような緊張感のある俳優と仕事をするときは、友人関係になることは難しいんだ。あくまで仕事を共にしながら、ベストの作品を作り上げていくだけなんだ。あの映画は、特別なスタイルで撮影するつもりもなく、ただ『愛』を描きたかっただけなんだ」と語った彼は、ジェイク・ギレンホールも含め、あの二人は恐ろしいほど素晴らしい俳優だったとも話した。

 まだまだ聞きたいことはたくさんあるが、限られた時間の中で、いろいろ語ってくれた。取材を通して、彼がいかに時間を掛けて丁寧に作品を制作しているかが、言葉の節々に感じられた。 (取材・文・細木信宏/Nobuhiro Hosoki)

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