夢半ばで急逝した伝説の漫才芸人、河本栄得の壮絶な人生に迫る
31日、天才漫才コンビといわれたベイブルースの高山トモヒロが、25歳で急逝した相方・河本栄得と共に歩んだ半生を映画化した『ベイブルース ~25歳と364日~』が公開される。公開前に、25歳で急逝した漫才コンビ、ベイブルースのボケ担当・河本の短くも壮絶な人生に迫ってみた。
雨上がり決死隊らと同期。「てんそ」こと吉本印天然素材、千原兄弟らと共に、1990年代前半の吉本の若手をけん引していたベイブルースは、上方お笑い大賞をはじめとする賞を総ナメにし、「次世代のダウンタウン」と言われるほどの若手有望株だった。絶頂期を知るペナルティのワッキーは「(観客の笑いで)揺れた銀座7丁目劇場を思い出す」と当時を振り返る。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いでスターへと上り詰めていく中、ある日河本が体調不良を訴えて入院。そのわずか2週間後、26歳の誕生日の前日に、河本は劇症肝炎による脳出血のため急逝した。FUJIWARAの藤本敏史は、バラエティー番組の控室に座っていた河本から「最近調子が悪くて、微熱が続いてんねん」と聞き、「病院に行ってください」と交わしたのが、河本との最後の会話になったことを明かしている。
映画では、そんな河本のお笑いに対するストイックな姿が描き出されている。相方の高山に「俺の精密機械になれ」と言い放ち、ツッコミの声のトーンからタイミング、その全てが思い通りになるまで何度もやり直しをさせる河本の姿は、まるで生き急いでいたかのようだった。河本のダメ出しを楽屋で目の当たりにしたことがあるというほんこんは、「この映画は2時間しかないけれど、高山が怒られていた時間はそんなものじゃなかった。相方の苦悩や焦りを全て受け止めていた高山は本当にすごい」と述懐する。
周りにいる人間が全員黙ってしまうほど相方に容赦なくダメ出しをしていたという河本だが、その反面、情が深く後輩思いの男でもあった。後輩の星田英利は、「当時、焼鳥屋からラーメン屋をはしごしては悩みを聞いてもらった」と涙ながらに語っている。映画『ベイブルース ~25歳と364日~』には、そんな情熱と共に駆け抜けた彼の25年と364日間が刻み込まれている。(編集部・森田真帆)
映画『ベイブルース ~25歳と364日~』は10月31日(金)より全国公開