連載第7回 『勝手にしやがれ』(1959年)
名画プレイバック
昨年、84歳にして最新作『さらば、愛の言葉よ』を3Dで撮ったジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作『勝手にしやがれ』(1959年)は、原案にフランソワ・トリュフォー、監修にクロード・シャブロルが名を連ねるヌーベルバーグを代表する一作だ。(冨永由紀)
難解で敷居が高そうと思われがちなゴダール作品だが、本作のストーリーはごくシンプル。ざっくりいえば、パリのアメリカ娘に恋い焦がれて、息が切れるまで疾走したチンピラの物語だ。トリュフォーの原案は1952年にフランスで実際に起きた事件からヒントを得たといわれている。
ジャン=ポール・ベルモンドが演じる主人公・ミシェルはハンフリー・ボガートに憧れ、ソフト帽を被って粋がっている。しきりに繰り返す、親指で唇をなぞる仕草は『マルタの鷹』のボギーの真似だという説もある。「トッポイ」という表現が一番ピッタリに思える、55年前の若者だ。
ジーン・セバーグが演じるヒロインのパトリシアは、ピクシーカット(当時は『悲しみよこんにちは』で彼女が演じたヒロインにちなんでセシルカットと呼ばれた)のアメリカ人留学生。ジャーナリスト志望で、シャンゼリゼで新聞売りのバイトをしている。
冒頭、ミシェルが盗んだ車でマルセイユからパリに着くまでが約5分。その間に警官を射殺し、突然観客に向かって「海が嫌いなら、山が嫌いなら、街が嫌いなら……」と話し掛け、「勝手にしやがれ!」とパンチラインまで飛び出す。このスピード感。唐突といえばそれまでだが、つながりを意図的に無視するジャンプカットが作り出すリズムは見事としかいいようがない。ベルモンドもセバーグも実に軽やかで魅力的。手持ちカメラによるゲリラ撮影は1959年のパリを切り取ったドキュメンタリー的な側面もある。絵画や小説、音楽の引用、すべてが新鮮で少しも古びない。やり方がわかったとしても誰もが使える技ではないことは、後追いが試みた猿真似の数々が証明済みだ。
パリで再会してから口説き続けるミシェルを、パトリシアは「本当に私のことを愛していない」と言いながら、徹底的にじらす。噛み合わないような、噛み合っているような二人のやりとりは、男と女のわかり合えなさを浮き彫りにする。パトリシアは何度も「~って何?」とフランス語の意味を尋ねるが、文字通りにも比喩的にも、ここである種のロスト・イン・トランスレーション状態が生じてくる。恋愛は当事者同士の主観に左右されるものだが、ここでは母語の違いというわかりやすいズレが、うまく行かない恋愛のてん末を描くのに功を奏している。
次から次へとあふれ出す台詞のすべてにゴダールの恋愛観、男性観や女性観を見る思いだが、特にオルリー空港でパトリシアが取材する小説家(フィルム・ノワールの巨匠、ジャン=ピエール・メルヴィル監督が名演)との問答は至言の宝庫だ。
野心や自分可愛さを頭の片隅に残し、ミシェルのしでかした犯罪を知った彼女は共にパリの街を逃避行するが、追っ手はすぐそこにまで迫っていく。
あまりにも有名なラストでは、ミシェルの言葉が第三者の仲介でパトリシアに伝えられる。それを受けて彼女は突然、冒頭のミシェルのように観客に向かって「最低って何?」と問いかけ、唇を親指でなぞる。何度見ても、もう決まりすぎなくらいに美しいラストシーンだ。
通報者の役で自ら出演もした28歳の監督、26歳と20歳の主演俳優が表現した若さは『勝手にしやがれ』という形で不滅となった。ゴダールは今も活躍を続け、ベルモンドも今年になって映画・演劇からの引退を宣言したものの健在だが、セバーグは本作製作から20年後の1979年に薬物過剰摂取で亡くなっている。前述のメルヴィルふんする作家が語った人生最大の野望……不滅になって死ぬこと……を皮肉にもいち早く叶えてしまったのは彼女だった。