『赤い靴』(1948年)監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 出演:モイラ・シアラー 第45回
名画プレイバック
スコットランド出身のバレエ・ダンサー、モイラ・シアラー。1941年にプロデビューし、翌年から現・英国ロイヤル・バレエ団に在籍した彼女の名前を世界的に知らしめたのが、イギリス映画『赤い靴』(1948)への出演だった。品良く可憐な容姿に悲劇的な物語はよくマッチ。何より劇中バレエシーンの美しさ、ホンモノの迫力は、映画史に残る屈指の完成度の高さを誇る。2009年には、同作をリスペクトするマーティン・スコセッシが約2年の歳月をかけてオリジナル・ネガを修復し、デジタルリマスター・エディションが世界初公開されたことでもよく知られているバレエ映画の名作だ。(今祥枝)
【写真】『赤い靴:デジタルリマスター・エディション』場面写真
天才的プロデューサーとして名高い、レルモントフ・バレエ団を率いるボリス・レルモントフ(アントン・ウォルブルック)。社交界の令嬢で若く美しいバレエ・ダンサー、ヴィクトリア・“ヴィッキー・ペイジ(モイラ・シアラー)”と、才能あふれる青年作曲家ジュリアン・クラスターという2人の新たな才能を発見し、契約を結ぶ。群舞のダンサーとしてデビューするヴィッキーと、楽長の助手となるクラスター。そんな中、プリマ・バレリーナのイリナ・ボロンスカヤ(リュドミラ・チェリーナ)が結婚すると、恋愛や結婚はバレエには邪魔なだけと考えるレルモントフは首を宣告。新作バレエ「赤い靴」の主役にヴィッキーを大抜擢し、ジュリアンに作曲させることに。過酷な稽古の日々ののち、華々しく初演を迎えた「赤い靴」は大成功を収め、ヴィッキーとジュリアンは一躍世界的に脚光を浴びる存在となった。
ヴィッキーの名声は天井知らずで、彼女の売り出しに熱中していたレルモントフ。だが、ある晩ヴィッキーとジュリアンの恋愛を知って激怒し、ジュリアンを首にしてしまう。ヴィッキーをバレエに集中させるためだったが、ヴィッキーは愛を選び、退団してジュリアンと共にロンドンへ。絶望するレルモントフ。だが、なんとかヴィッキーを復帰させようと画策し、かつて「踊ることこそ人生の目的」と語っていたヴィッキーの説得に成功する。バレエへの情熱と、ジュリアンへの愛との板挟みとなったヴィッキーは……。
アンデルセンの童話「赤い靴」をモチーフにした物語。元ネタと同じく悲劇的な結末を迎える本作は、二人の男性、愛と芸術の狭間で無情な綱引きを強いられる、才能あふれる女性ダンサーの苦悩が痛々しくも美しい映像と圧巻のバレエシーンによって、現代のおとぎ話、あるいは寓話的なロマンをかき立てる。非常にわかりやすくバレエの鬼であるレルモントフが芸術至上主義者で、自分と同じ志を持つヴィッキーが恋愛に走るなどあり得ないと愕然とするあたりは、あまりにも鈍感で、その後の言動は傲慢かつ思いやりのかけらもないが、人のタイプとしてはわからないでもない。レルモントフのモデルとされているのは、バレエ・リュスの創設者で芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフ。バレエ界の革命児にして巨星ディアギレフは同性愛者で、恋人を一流の芸術に触れさせて教育していくという習慣を持っていた事実は、レルモントフとヴィッキーの関係性に似ている。ただし、映画では最初の段階ではおそらく愛はなかったわけだが、レルモントフが無自覚にヴィッキーを自分のモノだと考えていたことは明らかで、師弟愛と恋愛感情の混同が招く悲劇はいつの時代にもあることのように思う。
ヴィッキーからすれば人生をバレエに捧げると言い切った気持ちは本物で、チャンスをくれて自分の夢を実現に導き、成長させてくれたレルモントフを無碍にすることは難しくとも、恋愛の対象ではないというのもまた理解できる。一方で、感情豊かなアーティストであるヴィッキーとジュリアンの恋は自然な流れで、本来ならレルモントフは一度は激怒してもヴィッキーが劇団を去る覚悟を知った時点で、すっぱり彼女のことは諦めるか、2人の愛を認めるのが大人の対応というものだろう。それができないほどの強い嫉妬と裏切られたという落胆の感情は、一般的に言えばエゴでしかないのだが、芸術至上主義者にエゴがないなんてあり得るのか!? という気もする。
最も悲劇的なキャラクターは、やはりヴィッキーであろう。ジュリアンは若気の至りなのかもしれないし、レルモントフにヴィッキーを取られる可能性に怯えたのか、あるいはヴィッキーのバレエへの強い想いにさえ嫉妬するほど、彼女を愛したのだろうか。あからさまにバレエか自分か、レルモントフか自分かと選択を迫り、一方のレルモントフも同じことをする。現代でも男性が、「仕事と私、どっちが大事なの?」と女性に詰問されると萎えるという話をよく聞くが、本作では男性陣がこの選択をヴィッキーに迫っているわけだ。この仕事か愛か、といった二者択一的な苦悩は、半世紀以上も経った今でも議論の的であることを考えると、本作のラストシーンを思い返してはブルーな気分にもなる。同時に、『ロパートキナ 孤高の白鳥』(2014)や『Maiko ふたたびの白鳥』(2015)など優れたバレエドキュメンタリー映画が近年公開されているが、彼女たちは出産を経験して見事に復帰を果たしている。そこには血のにじむような努力があるわけだが、それでも時代は少しは前進した、女性の生き方の選択肢は増えたと前向きに捉えるべきだろうか。現実的にヴィッキーのような犠牲を払いながらいばらの道を切り開いてきた先人たちの努力を思うとき、本作のラストシーンにはまた違った重さを持って胸にずしりと迫りくるものがある。
物語としては暗い面を多く見てしまうが、ビジュアル面では実に美しい映画だ。ヴィッキー役で一世を風靡したシアラーが主演を務める劇中バレエ「赤い靴」は、約20分もかけて劇中で上演され、シアラーの美貌、表現力とダンスの美しさは観客に大いに夢を見させてくれる。“テクニカラーの父”とも称されるジャック・カーディフの撮影に、アカデミー賞を受賞した美術監督の画家ハイン・ヘックロスらの仕事ぶりはモダンで洗練されている。さらに、同じくオスカー受賞のブライアン・イースデルの音楽が、全編冴え渡る。また、当時のサドラーズ・ウェルズ・バレエ(現・英国ロイヤル・バレエ)からはシアラーのほかにも、同団プリンシパルのロバート・ヘルプマン(兼振付)ほか多数のダンサーが出演。ディアギレフが率いたバレエ・リュスからは、振付家レオニード・マシーンが団員役を演じるほか、バレエ「赤い靴」では“靴屋の踊り”のみを自ら振付&パフォーマンスを披露。ボロンスカヤを演じたバレエ・リュス・ド・モンテカルロ(※セルゲイ・ディアギレフ亡き後、解散したバレエ・リュスを引き継ぐかたちでモンテカルロで組織されたバレエ団)のリュドミラ・チェリーナが、ボロンスカヤ役で、劇中バレエ「火のハート」で素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるシーンも貴重だ。ちなみに、劇中バレエ「赤い靴」では、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラのトマス・ビーチャムが指揮をとっている。バレエやダンスが好きな人にとっては、バレエを題材にした映画に物足りなさを感じることが多いと思うが、本作における伝説のダンサー、一流のクリエイターたちによる完成度の高いバレエシーンの数々は、十分に期待に応えてくれるはず。
それにしても、“赤い靴”とは何を象徴しているのだろうか? 一度履いてしまったら、死ぬまで踊り続けて脱ぐことは叶わない赤い靴。アンデルセンの童話の教訓は、主人公が思いやりに欠け華やかなこと、自分本位で楽しいことのみ優先させることの象徴が人目を引く“赤い靴”だというのは理解できる。そこからさらにテーマを発展させた通念としての“赤い靴”は、一度魅了されたら身を滅ぼしかねない芸術、バレエという美しくも過酷な芸術に対するリスペクトとダンサーの業を象徴していると考えると、劇中バレエ「赤い靴」は、この解釈に寄せていると思われる。一方で、映画全体の物語とアンデルセンの童話もまた呼応していると考えるとしたら、ヴィッキーにとっての“赤い靴”が持つ意味は、劇中バレエよりも原点に近いような気がしてしまう。まるでバレエ=仕事と恋愛=普通の幸せ、両方を手に入れようとしたこと、多くを望んだことをとがめているかのようなニュアンス。ヴィッキーのように、心の底から情熱を感じるライフワーク=“赤い靴”を手に取ることに女性が罪悪感を覚えることがない時代に、21世紀の世界は、日本はなっているのだろうか。