『M』(1931年)監督:フリッツ・ラング 出演:ピーター・ローレ 第49回
名画プレイバック
SF映画の古典的名作『メトロポリス』(1927)などで知られる、オーストリア出身の才人・フリッツ・ラング。実在の殺人鬼をモチーフにした『M』(1931)は、ラング初のトーキー作品にしてサイコスリラーの元祖とも称されるドイツ映画。とても85年も昔の作品とは思えない現代的な面白さに、冒頭からがっつりと引き込まれる映画黎明期の傑作だ。(文・今祥枝)
1920年代に、ドイツを震撼させた連続殺人鬼“デュッセルドルフの吸血鬼”と呼ばれたペーター・キュルテンをモチーフにした本作。幼い少女が次々と惨殺される事件が発生し、警察の懸命な捜査も虚しく犯人は見つからない。そんな中、犯人は直筆の手紙を新聞社に送りつけるという大胆な行動に出る。掲載された文面は市民を恐怖に陥れると同時に、無能をさらした形となった警察は躍起となって取り締まりを強化。市民は連続殺人鬼の恐怖と警察の締め付けにびくびくしながら生活することに……。一方、商売に支障をきたすと不満を募らせた暗黒街のボスたちは、浮浪者から娼婦をも使って組織的に独自の調査を展開する。一方、警察も手紙の筆跡からプロファイリングを行い、犯人像へと迫っていく。
冒頭、子供たちが輪になって遊んでいるシーンが俯瞰で映し出される。真ん中にいる少女が、「ちょっと待って あと少しだよ もうすぐ黒衣の男がやってきて よく切れる大きな肉切り包丁でお前をひき肉にするのさ」と歌い、輪の中の一人を指差す。無邪気に歌いながら遊ぶ子供たちの姿に胸がざわざわとし、不吉な歌詞の内容も示唆的で深読みしたくなる。日本の「かごめかごめ」などもどこか不気味だといつも思うのだが、こうした遊び歌に、何とも言えない不穏さがあるのは、万国共通なのだろうか。
場面は切り替わり、学校帰りの少女エルジーがぽんぽんとボールをつきながら歩いて、ボールを柱にぶつける。そこには、殺人鬼に高額の賞金がかけられていることを知らせる張り紙が。少女が見上げていると、その張り紙に帽子をかぶった男の横顔が黒いシルエットで映し出される。これまた不気味。続けて、風船を買ってもらう少女の姿を俯瞰で映し、買ってあげた男の顔は見えないが、エドヴァルド・グリーグ作曲の劇音楽「ペール・ギュント」第1組曲の中の「山の魔王の宮殿にて」を口笛で軽快に吹いている。本作にBGMはないのだが、だからこそ繰り返し登場する、犯人と思われる男が吹くこの旋律は耳に残り、この旋律を聞くたびにゾっとさせられる。残念ながらこの少女は8人目の犠牲者となってしまうのだが、号外に街中が恐怖に陥るまでの一連のシークエンスは、実に手際よく鮮やか。
このつかみはオッケーすぎる導入の巧みさに続いて、警察が犯人からの犯行声明の文章と筆跡を分析し、「一見分かりにくいが、紛れもなく狂気を抱えた人物」などとプロファイリングをするあたりになると、もはやこれがモノクロームのトーキー初期の映画でBGMもないといったことを忘れてしまう。映像も画作りもスタイリッシュかつシャープで完成度が高く、映画的な見せ方として非常に優れている。他作品でも不穏な空気をあおる影の使い方が抜群にうまいラングだが、本作でも残酷描写を直接見せるのではなく、例えば少女の惨殺シーンは見せずに、口笛の男に買ってもらった風船が電線に引っかかっている画を映すことによって少女の死を暗示し、悲しみを誘う。何よりスピーディな展開は、どこか今流行りの海外ドラマ、「CSI:科学捜査班」や「クリミナル・マインド」、無駄のない場面転換などは「LAW & ORDER/ロー・アンド・オーダー」といった犯罪捜査ドラマを彷彿させるものもあるように思う。
さて、人々が恐怖に陥り互いに疑心暗鬼になる中、暗黒街のボスたちが集まり、商売あがったりだからと独自の捜査を始める展開はユニークで意外性があって面白い。脚本は、ラングと当時の妻で女優作家テア・フォン・ハルボウが共同で執筆。フォン・ハルボウは、ラングの『ドクトル・マブゼ』(1922)や『メトロポリス』などの脚本も手がけている才媛。ユダヤ人であるラングが1934年に亡命してアメリカに渡った際に、ナチスドイツ支持者となったハルボウとは離婚しているが、2人のコラボレーションが生んだ傑作の数々は今も色褪せることはない。
この暗黒街のボスたちが指揮する組織的な捜査は見事な効果を上げる。とりわけ盲目の風船売りが犯人に気づくくだりは、思わずおおっと声をあげたくなるほどのカタルシス。すぐに風船売りは別の仲間に犯人らしき男を追跡させ、仲間は彼を見失わないよう手にチョークで「M」と書いて素知らぬふりをして犯人と思われる男のコートの右の肩にバンと手をつき、目印をつける。ここから、暗黒街チームは総出で「M」の印がついた男の捜索にかかるという大捕物が展開する。一方で、警察でもプロファイリングと地道な捜査から容疑者ハンス・ベッカート(ピーター・ローレ)が浮上する過程が平行して描かれるのだが、お互いの展開が呼応するようにポンポンと行き来しながらも、流れは実にスムーズ。この演出、編集はともに当時としては斬新なものだと思うが、今観ても無駄がなく秀逸だ。
これで事件は解決じゃないかと思うかもしれないが、この辺りまでがちょうど半分の1時間程度。ここから物語はがらりと様相を変えて、舞台は廃墟となった工場へと移動する。このシーンもまた背筋がぞっとするのだが、言って見れば前半は娯楽性にあふれたクライム・サスペンス、一転して怒れる群衆 対 Mの密室劇となる後半は、息詰まるような心理劇であると同時に変形の法廷ドラマのようでもある。
前半は顔が見えなかったMことハンス・ベッカートを演じる、ピーター・ローレの狂気の演技が凄まじい。ハンガリー出身のユダヤ人であるローレは、後にハリウッドで『マルタの鷹』(1941)や『カサブランカ』(1942)などの作品で個性派俳優として活躍した。そのローレの怪演は後半の大きな見どころで、目が飛び出んばかりの表情は明らかに常軌を逸しており、「自分の影に追われる」としながら語る言葉や表情は、完全に精神を病んでいるように見える。だが、だとすれば彼が語る言葉は真実なのだろうか? もとより、なぜ市民は暗黒街と手を組み、警察に犯人を引き渡して法の裁きを受けさせるという道を選ばなかったのか? Mのインパクトも絶大だが、むしろパンで映し出される、Mにありったけの憎悪をぶつける群衆の顔のアップの方にこそ困惑を覚え、恐ろしいとさえ感じてしまう。
Mとは、ドイツ語で殺人を意味する「Morder」の頭文字。だが、ナチスドイツが台頭してきた時代背景を考えた時、アルファベットの印が意味することには違ったニュアンスも感じられる。不安な時代の空気と、来るべき狂気の時代における恐怖を映した作風は、ナチスドイツ時代には厳しい弾圧を受けることになるドイツ表現主義の特徴と言えるだろう。だが、難しいことを考えずとも、本作の時代の気運は不思議と現代に通じるものがあるところに、言い知れない不安を覚える人も多いのではないだろうか。Mをめぐる世間の狂騒の影で、「こんなことをしても子供は返ってこない。子供から目を離してはいけない……絶対に!」と観客に向かって訴える被害者の母親の悲痛な叫びが、いつまでも消えない余韻を残す。