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名画プレイバック

名優ダグラスと若きキューブリックが組んだ野心的反戦映画『突撃』(1957年)

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映画『突撃』より。当時大スターだったカーク・ダグラス
映画『突撃』より。当時大スターだったカーク・ダグラス - (C)United Artists / Photofest / ゲッティイメージズ

 第一次世界大戦の独仏戦の最前線を描いた『突撃(原題:Paths of Glory)』は、邦題からドンパチがメインの戦争映画を想像するかもしれない。確かに、前半の塹壕戦での無謀な突撃は熾烈を極めるが、後半は一転して、形ばかりの軍法会議を通して戦争の矛盾と理不尽さを浮き彫りにする。当時、若手監督として頭角を現し始めていたスタンリー・キューブリックの企画を、大スター、カーク・ダグラスの強力な後押しにより実現した気骨のある秀作だ。(今祥枝)

 1915年9月、塹壕戦が膠着(こうちゃく)状態にある西部戦線。フランス軍のブルラール大将(アドルフ・マンジュー)は、ドイツ軍の要害堅個な陣地、通称「アリ塚」を占拠せよと、ミロー将軍(ジョージ・マクレディ)の師団に攻撃を命じる。ミローの部下でフランス軍701歩兵連隊の隊長ダックス大佐(カーク・ダグラス)は、兵士たちの疲労はピークにあり士気も低く、無謀な攻撃は戦死者を出すだけだと抗議するが一蹴される。かくして勝ち目のない作戦は決行となり、ダックスは連隊の先頭に立ち進軍するが、雨あられのように降り注ぐ砲弾と機銃掃射で敗退を余儀なくされる。翌日、ミローは命令不服従だとして生き延びた兵士たちを逮捕監禁し、ダックスに第一波の各中隊から“臆病者”を代表する兵士3人を選び、軍法会議にかけると言い放つ。司令部と自らの判断ミスを兵士たちの責任にすり替えようとするミローに激怒するダックスは、本職が刑事訴訟の弁護士であることから、軍法会議で3人の部下を弁護することに。だが、ダックスの奮闘も虚しく、形ばかりの軍夫会議で3人は無情にも有罪判決を受ける……。

 冒頭からして、戦争がどれほど理不尽なものであるのかをよく伝える脚本が素晴らしい。命令を受けたダックスが、どれだけ死傷者が出ると思うのかと問うと、「5%が味方の砲火で死ぬ。10%が無人地帯を、20%が鉄条網を通り抜け、最悪の仕事の後に残るのは65%。その25%が『アリ塚』を奪取する」と答えるミロー。「半分以上が殺されるというんですね」 と憤るダックスが、部下を見捨てることはできないと言って、指揮を執るべく最前線へ戻っていく。そもそも、この戦線の後方にある司令部は貴族の豪邸なのが皮肉だ。デコラティブで洗練された室内の美術にはキューブリックらしいディテールへのこだわりがうかがえるが、疲弊しきった兵士たちが泥まみれになってひしめいている塹壕との対比が凄まじい。優雅に食事をしながら、膠着状態を打破するためには名もなき市民、労働者で構成される下っ端の兵士が何人犠牲になろうが、彼らにとっては取るに足らないことを端的に伝えている。

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 本作におけるこの縦割り組織の問題は、作戦遂行中、どうにも前に進めない状況に陥った兵士たちが後退できないよう、ミローがフランス軍の塹壕への爆撃命令を出すくだりで、早くも頂点に達したように見える。「ドイツの弾が嫌なら、フランスの弾を食らえ!」とわめくミローの姿は、狂人だろうか? いや、これこそが戦争の現実というものなのだろう。こんな狂った倫理観がまかり通る軍隊において、誰よりも高潔さを感じさせるのがダックスである。

 演じるカーク・ダグラスは、今では息子マイケル・ダグラスの方が広く知られているのかもしれないが、一本筋の通った信念を持つ偉大な銀幕スター。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』では、赤狩りで迫害を受け別人として脚本執筆を余儀なくされたトランボに対して、周囲の声をものともせず、その才能を高く評価して『スパルタカス』(1960)の脚本を依頼するシーンが描かれている。赤狩りに反対したスターのひとりでもあるカークの、そうしたエピソードからも読み取れる人柄は、ダックスにもよく表れていると思う。本作でも題材に惚れ込み、自らプロデューサー(ノンクレジット)を務めているだけあって、カークの戦争の非人道性に否を唱える強い主張や正義感が前面に出た仕上がりとなっている。もっとも、それは鼻につくものではない。静かだが、気高く力強い演技を見せるカークのダックスは、弁護士らしく、根気強く理性的に軍に公平性や正義を求めても、大きな力の前には成す術もなく敗北する。そうした理不尽さ、悔しさを全てのみ込み、兵士たちと運命をまっとうしようとするダックスは、決してスーパーヒーローではない。とはいえカークの堂々たる振る舞いには、惚れ惚れするほどの威厳があり、これこそが命を預かる者の、人の上に立つ者のあるべき姿と思わせる。

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 同時に、本作は紛れもなくキューブリックの非凡な才能を証明している。まず、序盤の突撃シーンの凄まじさ。近いところだと『プライベート・ライアン』(1998)の冒頭が思い出されるが、内臓が飛び散るなどといったグロ描写はないものの、砲弾が雨あられと降り注ぎ、次々と兵士たちが動かなくなっていく過程を淡々と映し出すシークエンスは、特筆に値する。砲弾のドーン、ドーンという重低音と、ひゅーん、ひゅーんと空を割くような高音が途切れなく、一定のリズムで鳴り響く爆撃音はミニマル・ミュージックのごとく。臨場感もありつつ、シャープでアーティスティックな印象を与えるという離れ業をやってのけている。また、終盤の処刑シーンでは、背景には司令部の豪邸がそびえ、兵士が隊列を変えながら任務を遂行していくシークエンスの流れるようなカメラワークと、左右対称、シンメトリーな構図には目を奪われる。そして、ここでも規則的に響くドラムの音が、無慈悲な場面の中にもウェットではなく寒々とした乾いた空気を感じさせて素晴らしい。

 前述のシーンのほかにも、序盤で狭く長くうねる塹壕を、きびきびと歩くダックスの雄姿をなめるように捉えるカメラワークもまた秀逸。これぞキューブリック! と感嘆させられる映像美の連続である。もっとも、キューブリックはカークに才能を買われて、本作と『スパルタカス』でハリウッドで脚光を浴びるチャンスを得たものの、監督よりプロデューサー、スタジオ主導のハリウッド・メジャーの製作システムは我慢がならなかったと明言。この後、イギリスへ渡って『ロリータ』(1961)などを撮ることになる。公にハリウッドの悪口を言うキューブリックに対して、カークは苦言を呈するが、後に自伝で「才能あるくそったれ」と評していることからもキューブリックの才能に惚れ込んでいたことは間違いない。

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 さて、本作は戦争映画でありながら、敵方のドイツ兵がほぼ描かれない点も興味深い。その分、ラストで登場する若いドイツ人女性歌手(クリスティアーヌ・ハーラン、後にキューブリックの妻となる)の存在が際立っている。ここは劇中で最もわかりやすい感動を誘うシーンであるが、ふと、彼らは一体誰と闘っているのか? という問いが浮かび、観客の安易な感傷を許さず最後まで甘さを排除した作りが好ましい。塹壕で不毛な長い時を過ごした彼らにとって、何よりも望むものは平穏な日常である。一方、ブルラールやミローもまた大義などどうでもよく、もはや膠着した戦況を体面上何とかしたいという保身のためだけに動いているに過ぎない。無謀な作戦によって多くの命を失い、見せしめのため、士気を上げるために処刑された名もなき兵士たちの血は、何のために流されなければならなかったのか?

 劇中、ダックスが18世紀のイングランドの文学者、サミュエル・ジョンソンの「愛国心は悪党の最後の口実」という言葉を引用するくだりがある。「国家のため」を、あらゆることへの免罪符にしてしまうことへの底知れない恐怖。時代を超えて、この言葉の持つ意味は重く、胸に突き刺さる。

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