アガサ・クリスティの代表作の映画化『そして誰もいなくなった』(1945)が偉大である理由
名画プレイバック
アガサ・クリスティ没後40年だった今年。「オリエント急行の殺人」の新たな映画化の企画などを含めて、クリスティの原作は現在のエンターテインメントにおいて依然として雛型であり続けている。そうしたマスターピースの中には、当連載で取り上げた『オリエント急行殺人事件』(1974)や「検察側の証人」の映画化『情婦』(1957)など、映像化作品や舞台劇としてよく知られているものも多い。とりわけ、そのプロット、トリックが後世に多大な影響を与えている作品の代表として、「そして誰もいなくなった」を挙げることができるだろう。(今祥枝)
孤島に集められた10人が、よく知られた童謡になぞらえて一人また一人と殺されていくというのが大筋。いわゆるクローズド・サークルの代表作品であり、童謡殺人(見立て殺人)の代表作品である。ミステリー好きならわくわくさせられる設定だが、このプロットがどれだけミステリーやサスペンスといったジャンルにおいてポピュラーであることか。日本人にとっては横溝正史の「悪魔の手毬唄」が思い浮かぶか、あるいは全くクリスティの原作の存在を知らずとも、「名探偵コナン」や「金田一少年の事件簿」などで子供たちにもおなじみだろう。
本作の映像化作品は多数あるが、その多くはクリスティ自身が執筆した戯曲をベースにしている。中でも戯曲に忠実だとされているのが、フランスのルネ・クレール監督がアメリカで撮った『そして誰もいなくなった』(1945)だ。孤島の別荘に8人の男女が「ユー・エヌ・オーウェン(U.N.Owen)」(Unknownと読める)という差出人からの手紙によって招待され、小船で海を渡ってやってくる。だが、別荘に主人の姿はなく、使用人のロジャース夫婦が彼らを出迎える。その夫婦も手紙で雇われ島に来たばかりで、招待客を含め誰も主人と直接面識のある者はいないことが判明。さらに、本土との連絡手段はボートのみ。どうにもならないのでとりあえずくつろいでみるも、ロジャースがかけたレコードから声がして、10人が過去に殺人を犯したと告発。全員がそれを否定するが、どう考えても怪しいわけで、一番浮ついた感じの青年が服毒死したのを皮切りに殺人ゲームが幕を開ける。
殺害方法は、英語圏で広く親しまれているマザー・グースの一つ「10人のインディアン(Ten Little Indians)」の歌詞に見立てられている。別荘には額に入った童謡の歌詞が壁に飾られており、10体のインディアンの陶器の人形が置かれている。一人殺されるごとに人形も一つずつ壊されていくあたりは、いかにも映画らしく刺激的だ。原作では一つずつ人形がなくなっていくのだが、画的には粉々に叩き潰されている方がインパクトがある(戯曲では壊されている)。また言い方は悪いが、趣向を凝らした殺人のバリエーションは映像向きだろう。ちなみに、歌詞には単に今後の犠牲者の死に方を示唆するだけでなく、真犯人のヒントが含まれている。
端的に言うならば、クレール版『そして誰もいなくなった』はコメディー色が強い。お互いに疑心暗鬼になり、寝室に行くにもお互いをけん制しあったり、ひっつきあったりする様子にはコントっぽい瞬間もある。特に、使用人の妻ミセス・ロジャース(クイニー・レナード)が亡くなったにもかかわらず朝食の準備を心配するミスター・ロジャース(リチャード・ヘイドン)は、恐怖を通り越して妙にハイテンションになったりとコミックリリーフのよう。もっとも、その後は童謡にある通り「斧で頭をかち割られる」のでシュールだ。97分の上映時間のうち、1時間もすると折り返し地点で各々が罪を告白し合うなかで誰が黒幕なのかが絞られていくが、よくよく落ち着いて観ていれば誰が犯人かというトリックは原作未読でも見破れる人もいるだろう。そのようにきちんと伏線が張られていなければ、ミステリーとしては一級品とは言えない。
『巴里の屋根の下』(1930)や『自由を我等に』(1931)などで知られるクレールは、ジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエらと並ぶ「詩的レアリスム」の監督と評されている。フランソワ・トリュフォーは「幸福な映画作家」とも表現しているが、詩情にあふれ風刺やウイット、洒脱なユーモアセンスが持ち味のクレールの作風は、本作に向いているとは言えないかもしれない。だが、雷鳴が轟き、派手な劇伴でこれでもかとサスペンスを盛り上げる古典的な手法は、今観るとこれはこれで味わいがある。バリー・フィッツジェラルドやウォルター・ヒューストンら大物俳優も手堅い演技だし、転がる毛糸玉の糸をたどる猫を追ったカットや海辺の風景、自然を捉えた映像美はエレガントで、映像化作品でよく知るクリスティの世界の原型と言える。何よりラストが思った以上に軽く感じられるが、そこにこそクリスティの映像化作品が広く一般に愛される理由があるように思う。
ここから先は、原作と戯曲、及び本作の結末を明かした上で論じていく。
原作では、童謡の通り全員が死に絶えてしまうが、これはあまりにも陰鬱なラストだとして戯曲では2名が生き残る。この2名は罪を犯しておらず、何ら罰せられる理由はない。だから童謡に「首をくくった」と「結婚した」の2バージョンあるラストでは、後者のニュアンスをくんで最後の2人がハッピーエンドとなっている。厳密に言えば、戯曲と映画はこの2人の設定などが多少違うが、全員が法では裁かれなかった重罪を犯している一方で、人を裁くことに異常な執着を持つ元判事の計画によって制裁される原作に比べると、重苦しさはかなり減少する。ここが原作と戯曲・映画の好き嫌い、評価が分かれるところだろうか。クリスティが作品に込めた正義感、社会的制裁が下されることのない犯罪を許すことができないという思い。同時に人が人を裁くことに対する懐疑、絶対的な正義といったものを肯定することへの危惧といった、原作の根底にあるテーマ性が薄れてしまうからだ。
しかし、重苦しさをある程度排除し、いかにも「謎解きゲームです」といった芝居がかった映画版の方が娯楽として一般的に広く親しまれやすいことは確か。比較的明るいトーンの劇伴も含めて、残酷な殺し方や、ひき逃げ、モラハラ、功名心といった利己的な理由で直接・間接的に殺人を犯した登場人物に対して、ライトで洒落たタッチの方が観客は気楽でいられる。これは映画『オリエント急行殺人事件』(1974)などにも顕著で、テレビシリーズ「名探偵ポワロ」の重厚なタッチで描かれたテレビムービー『オリエント急行の殺人』(2010)と比較すると、作品の解釈の違いがよくわかる。この2バージョンは、犯罪者を罰することを見逃すのか法の正義にのっとるのかといった、ポワロの逡巡(しゅんじゅん)、苦悩が描かれるか否かで、作品の解釈や重みがガラリと変わるという典型。『そして誰もいなくなった』の原作には探偵役はいないが、戯曲・映画版では探偵役の2名は無罪なので、そこに感情を乗せればあえて深いことを考える必要もない。もちろん、クリスティの手による戯曲もまた、優れた原作の翻案である点は特筆に値する。
もう一つ、クレール版『そして誰もいなくなった』からは、プロットの完成度の高さもさることながら、この作品の持つ映像化におけるポテンシャルの高さがよくわかる。映画は個々のキャラクター付けは薄味で物足りなさもあるのだが、登場人物の膨らませ方次第でドラマはいかようにも盛り上げることができるし、人物の情報が増えるとミスリードもより可能になりトリックにも幅が出る。真犯人は誰か、生き残るのは誰かといった核心的な部分も集められた人々の関係性が希薄なのでアレンジしやすい。演者によっても印象は大分変わるだろう。もちろん、不気味な童謡や孤島などキャッチーな要素は外せないが、完璧なプロット+翻案の自由度の高さが後に多くのクリエイター、作品に影響を与えインスパイアしてきたことは間違いない。
もっとも、古典的である点は否めない。それは、劇中で現在は差別用語であるインディアンという言葉が使われていることからもうかがえる。もとはといえば、アメリカで「10人のインディアン」として生まれた楽曲がイギリスに上陸した際、「10人の黒人少年(Ten Little Nigger Boys)」と翻案され流行した。よってクリスティの1939年発表当時の原題は「Ten Little Niggers」。だが、ニガーは差別用語なので米版は童謡のラストをとって「And Then There Were None」として発行され、文中のニガーはインディアンに改変され、映画版も後にそれに習ったという経緯がある。現在では童謡は「10人の小さな兵隊さん(Ten Little Soldiers)」、島の名前も兵隊島と改変されている。このように、当然ながら古い映画にはいかにも古めかしく思える描写、ノリもあるが、名画を名画として楽しむというのもまた乙なもの。近年の映像化作品には重厚なタッチがトレンドではあるが、原作を読み返しながら、クリスティの映像化作品が一般大衆に受け入れられる要素の原点を見るとも言えるクレール版『そして誰もいなくなった』を、ゆったりとした気持ちで観るのも悪くない。