エドワード・ヤン&ホウ・シャオシェン決別説の真相は?二人の天才の秘話
『クー嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』などの故エドワード・ヤン監督がメガホンを取り、1980年代半ばの台北を舞台に過去に囚われた男と未来を見つめる女のすれ違いを描き出した『台北ストーリー』で主演を務めたホウ・シャオシェンが来日した際に当時の思い出を振り返り、自身とヤンの関係について語った。
二人の付き合いが始まるきっかけとなったのは、ホウが『風櫃(フンクイ)の少年』の仕上げをしていたときのこと。同じスタジオの隣の編集室でヤンは『海辺の一日』の編集をしており、互いに部屋を行き来して作品を観ていた時にヤンが、「『風櫃(フンクイ)の少年』の音楽にはヴィヴァルディの<四季>が合う」とアドバイスしたという。そして、それを受けたホウが台湾公開後にミキシングをし直したものがインターナショナル版になった。台湾ニューシネマを代表する監督たちを輩出した1980年代初頭の中央電影公司の中でも、ホウとヤンは一番仲が良かったそうだ。
さらに、アメリカから帰国したばかりだったヤンのために業界に詳しいホウがプロデューサーとして資金を集めることもあった。『台北ストーリー』では合計600万元の借金を背負うことになるものの、ラブストーリーを期待して来た当時の観客には芸術的すぎて理解されず、4日間で公開打ち切りに。ホウは『悲情城市』のヒットまでその借金を返済できなかったと明かす。
この借金が原因で二人は袂をわかつことになったともいわれているが、ホウは「借金のためにエドワード・ヤンと仲たがいすることはなかったです。ぼくの『風櫃(フンクイ)の少年』も7日間で公開打ち切りになりましたし、そんなことばかりでした。当時、ぼくたち(台湾ニューシネマの映画監督たち)が作る映画は興行が厳しかった。なので、ぼくらは『台北ストーリー』の後も親しく付き合っていました」と決別説を否定した。
そんな二人の強い絆は、『悲情城市』の製作が決定した際のエピソードにも表れている。撮影が決まってからホウが受け取ったヤンからの長い手紙には、「5000万元もの製作費をかける大作に挑むのだから、これまでと同じような作り方ではダメなのではないか?」「『悲情城市』は家族の長い物語、そして台湾の歴史を扱った大きな企画なのだから、これまでと同じ長回し多用の撮影スタイルではない違うやり方を考えたほうが良い」と書かれていたという。
その手紙を読んだホウは、「彼のアドバイスはよく理解できました。深く考えてみたけど、でも僕は、やはりこれまでの自分のやり方を変えられなかったし、変えなかった。これまでの自分のスタイルで行こう、と決断した。今でも、カット割りはしません」と最終的には自身のスタイルを貫き、同作でベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞、世界から注目を浴びることになった。ホウ自身が「こんな率直な意見をくれる人間は、親友以外にはいないと思いました」というように、いかに二人が気のおけない関係であったかがうかがい知れる出来事だ。
1990年代には互いに映画製作も忙しくなり、だんだん疎遠になっていったそうだが、「親しい時もあり、そうじゃない時もありましたが、人間関係というのはそういうものです」とホウは語る。『台北ストーリー』のヒロインを演じたツァイ・チン(後のヤンの妻)は、二人を見て「まるで二人は恋愛しているようだ」と言ったというが、ホウは「ぼくらは、映画の作り方も作風も全く違います。実際のぼくとヤンは、生まれた環境や育ち、考え方など、何もかもが全く違っていました。だからこそ、お互いに才能を認め合っていたし、磁石みたいにお互いに無いものを求め合っていたのだと思います」と亡き親友へ思いを馳せる。そんな二人の強いつながりの末に誕生した『台北ストーリー』。今回の4Kデジタル修復ではホウが監修も務め、ヤンの生誕70年・没後10年にあたる今年、ついに日本公開を迎える。(編集部・吉田唯)
映画『台北ストーリー』は5月6日よりユーロスペースほか全国順次公開