錦戸亮『羊の木』でみせる地味演技のすごさ
錦戸亮が主演する映画『羊の木』が先週末、ついに公開された。錦戸のリアルな市役所職員ぶりにかなり驚かされるが、メガホンを取った吉田大八監督も錦戸の演技を「天才的な普通の人」と評価している通り、このなんとも言えない大衆感、うっかりすると新橋駅前辺りでインタビューを受けてしまいそうな庶民的佇まいは、いったいどこからにじみ出てくるものなのだろうか。(文:坂田正樹)
本作は、山上たつひこ、いがらしみきおによる第18回文化庁メディア芸術祭優秀賞(マンガ部門)に輝いた問題作を、『桐島、部活やめるってよ』『紙の月』などの吉田監督が大胆にアレンジを加え実写映画化したヒューマンサスペンス。殺人歴のある元受刑者の移住を受け入れた、ある港町の市役所職員・月末一(つきすえはじめ)を錦戸が演じ、彼らに翻弄されながらも町の治安を守る等身大の青年をナチュラルに表現してみせた。
先日のインタビューで錦戸は、「カメラが回っている間は、役とともに生きていたい」「撮影が終わったら、その日の夜に音楽番組やバラエティー番組があったりするので、いちいち月末役のモードに入っていたら何もできない」と語っていた。一見、突き放しているように聞こえるかもしれないが、この言葉から、錦戸に対してアイドルイメージを強く持ちすぎていたわれわれは、大きな勘違いをしていたことに気付かされる。
つまり、錦戸にとっての“基点”は、役者でも、ミュージシャンでも、アイドルでもない。芸能を生業(なりわい)としている、あくまでも普通の人=錦戸亮なのだ、ということ。映画の現場に行けば、そのときどきの役に成り切り、アイドルの現場に行けば、キラキラオーラを放ちながら関ジャニ∞を全うする。ある意味、仕事は全て役柄、それ以外は極めてシンプルに“普通の暮らし”を営んでいるからこそ、誰もが共感する月末をごく自然に表現することができるのだ。だから、「オーラを消して月末役に臨んだ」のではなく、「月末役からオーラは生まれない」が正しい解釈ではないだろうか。
さらに錦戸はこうも語っている。「共演者の方々のお芝居や、吉田監督の演出に対して、常に敏感でいたかった」「撮影中はなるべく気持ちをフラットな状態にして、その場の流れに身を委ねるようにした」。これが錦戸のスタンスでもある「役づくりはしない、現場での瞬発力に懸ける」というところにつながってくるのだが、その切り替えの速さ、的確なパフォーマンスは、関ジャニ∞の活動で鍛えられたのか、それとも天性のものなのかは定かではないが、圧倒的な対応力を見せつける。
例えば、冒頭、個性の強い6人の元受刑者を錦戸演じる月末が迎えに行くシーンがある。その中で同じやりとりを何度も繰り返すが、途中、「この人たち、何だかおかしいぞ」と次第に思い始めると、同じセリフでも言い方に違和感が生じたり、表情も微妙に変化したりする。それらは全て、共演者の芝居に敏感に反応し、その場の流れに気持ちを委ねているからこそ、自然に生まれるリアクション。つまり、瞬発力の賜物なのだろう。
「カメラの前に立つと俳優として切り替り、飄々としながらも、一つ一つの表情に観客の気持ちを乗せて物語を進めることができる天才的な普通の人」。錦戸を評して、吉田監督はこう語った。元受刑者に振り回される市役所職員・月末がここまで注目されるのも、何だか不思議な感じだが、それだけ錦戸が奏でる“地味演技”が秀逸だったという証しでもある。
映画『羊の木』は全国公開中