中華圏の映画界に引っ張りだこの日本人作曲家
中華圏のアカデミー賞こと第53回台湾金馬奨で新人監督賞を受賞するなど国内外で高い評価を受けた香港映画『誰がための日々』が公開中だ。音楽を担当したのは香港在住の波多野裕介で、今や中華圏の映画界になくてはならない存在である。もともとはピアニストとしての活動のために香港へ辿り着き、映画界とは無縁でだったという波多野だが、「“人生何が起こるかわからない”という人の、標本みたいな人間です」と不思議な運命の巡り合わせを語った。
【動画】現在の香港社会を色濃く反映した『誰がための日々』予告編
波多野は1986年に米国生まれ、父親の仕事に伴い名古屋、マレーシア、シンガポールで育ち、オーストラリアの名門クイーンズランド大学で音楽を学んだ。卒業後はブリスベンでピアニストとして活動をはじめ、2011年に大学で出会った夫人のジーンさんの故郷である香港へ移住した。当初はホテルで演奏活動を行っていたが、知人の短編映画の音楽を手がけたことをきっかけに仕事が舞い込むようになったという。
ちなみにジーンさんは、香港の大御所女優シュー・ヤムヤムの娘だが、波多野自身は香港映画にとんと疎かったようで「『酔拳』(1978)とか、『少林サッカー』(2001)『カンフーハッスル』(2004)といった有名どころぐらいで、単純に香港映画って面白いんだなぁと思っていました。ジーンと付き合いだしてから『インファナル・アフェア』(2002)などを観るように。でも今も俳優や監督がよくわからないので、彼女に教えてもらっています」と苦笑いする。
中でも、出会いとして大きかったのがマカオを舞台にしたオムニバス映画『グッド・テイク!(英題) / Good Take!』(2014)だ。同作には気鋭の新人監督が参加しており、そこでコンビを組んだヘンリー・ウォン監督とは『全力スマッシュ』(2015)を、デレク・ツァン監督とは『七月と安生』(2016)へとつながった。そして、その『七月と安生』(ピーター・カムと共作)で、香港のアカデミー賞こと第36回香港電影金像奨でオリジナル作曲賞を受賞するという快挙を成し遂げた。
波多野の武器は、世界各地を転々とし、さまざまな文化に触れ合って得た知識と経験。そしてコミュニティーに深く入り込むために香港に来てから習得したという広東語だ。
「特に中華圏の文化は、シンガポールに住んでいた時に少しずつ自分の中に入っていましたし、オーストラリアではアジアン・コミュニティーの人たちとよくカラオケへ行っていました。具体的に音楽制作をはじめたのは香港へ来てからですが、(中華圏音楽史の)知識はゼロではなかった。それに音楽家でも自己主張の強い人とそうでない人がいるのですが、自分はその間ぐらい。監督たちの意見も取り入れつつ自分の意見も出すという映画音楽の仕事は、自分に向いていたと思います」
『誰がための日々』のウォン・ジョン監督とも、先に挙げた『グッド・テイク!』で出会った。同プロジェクトに参加していたウォン監督は当初、別の音楽家に音楽を依頼していたが納得できなかったため、波多野に「作り直してほしい」と声をかけてきたという。ウォン監督の短編を観て圧倒的な才能を感じた波多野は、二つ返事で快諾。以来、波多野はウォン監督作品にずっと参加している。
「僕は監督の性格を大事にしながら、音楽を作ります。例えば、『七月と安生』の(大御所俳優エリック・ツァンの息子である)デレクは若いけど経験豊富で、社会の黒い部分も知っているという感じの音楽。『全力スマッシュ』の共同監督であるデレク・クォックは情熱的なので、炎が見えるくらいのアツい曲を。その真逆がウォン・ジョン。彼の映画には、氷のように冷たい音楽が合います」
『誰がための日々』は実際に香港で起こった事件をベースに、母親の介護から事件を起こして措置入院させられていた主人公トンの、退院後の人生を描く。腫れ物に触るかのように接する父親との関係、周囲の偏見、誹謗中傷など、立ちふさがる現実をどのように乗り越えていくのか。観客の同情を誘わない波多野の音楽が、一層、トンが置かれた厳しい状況と悲痛な心情を浮かび上がらせる。
「観れば観るほど、観客もトンと一緒に(どん底に)落ちていく感覚に陥るんですよね。でも、ウォン監督はそれをやり切った。作品によってはプロデューサーの意向が強くなって迷いを生じてしまう監督もいますが、ウォン監督のように芯の強い監督は一緒に仕事をしていて本当に助かります」
波多野は『誰がための日々』でも、第36回香港電影金像奨でオリジナル作曲賞にノミネートされた。以降、中国本土の映画界からも引っ張りだこで、1月25日には人気俳優ハン・グン主演『ザ・グレート・ディテクティブ(英題) / The Great Detective』、2月5日にはジャッキー・チェン主演の大作時代劇『ザ・ナイト・オブ・シャドウズ:ビトウィーン・イン&ヤン(英題) / The Knight of Shadows: Between Yin and Yang』と、中国の春節祭に担当した2作が公開されるという売れっ子ぶりだ。
「こちらでは3週間ぐらいで作曲して録音という無茶な要求もありますし、スケジュールが大幅に遅れるなんていうこともしょっちゅう。でもいただいたお仕事はチャンスだと思って引き受けています。尊敬する作曲家は、ジャズもエレクトロポップもカントリーもなんでもできる上に、深いところまで音楽的に面白い菅野よう子さん。菅野さんのように、幅の広い音楽家になれたらと思っています。まだ全然なんですけどね(苦笑)」
中華圏だけでなく、世界にその名をとどろかせる日も近い。(取材・文:中山治美)
映画『誰がための日々』は新宿K’s cinemaで公開中