姉弟と偽って生きる少年少女…ベルギーの巨匠ダルデンヌ兄弟が“友情”を描いた理由
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟の新作映画『トリとロキタ』が3月31日に公開された。『ロゼッタ』『ある子供』『少年と自転車』などの作品で、一環して社会から疎外された人々を描いてきたダルデンヌ兄弟が、難民の少年少女を主人公にした本作について語った。
その新作となる『トリとロキタ』は、アフリカからベルギーのリエージュにたどり着いたロキタとトリが、姉弟と偽って暮らしながらも、希望を失わずに共に生き抜こうとする姿を映し出す力強い作品だ。10代後半のロキタとしっかり者のトリは、常に行動を共にしていたが、ロキタはビザがなく正規の仕事に就くことができない。祖国にいる家族のためにドラッグの運び屋をして金を稼いでいたが、あるとき偽造ビザを手に入れようとさらに危険な闇組織の仕事を始める。
──監督の作品には主人公が少年や少女が多いですね。今回は強い友情がテーマとしてあります。どのように物語を作り上げていったのでしょうか。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ(以下、JP):今から2年ほど前にある記事を読みました。それは数百人単位の移民の子供たちがヨーロッパに渡ってきて消息を絶っていて、誰も彼らがどうなったかわかっていないという記事でした。消息を絶ってしまうのは、彼らが闇社会にはいっていたり、売春させられていたり、最悪のケースは殺害されて亡くなっているということでした。その記事を読んで、自分たちが住んでいる国々でこうしたことがあっても、誰もそのことについてそんなに心配をしていない、このようなことがあっていいのかと私たちは強い憤りを感じました。それでこの同伴者のいない二人の未成年者の移民たちの話を“友情”を通して、彼らがいかにこの劣悪な環境で戦いながら生きているのかを描こうと思いました。
移民の子供たちには誰か信頼できる人が本当は必要です。一人で“移民”として生きていくのは不可能です。特に本作のトリとロキタのような幼い子供たちに関してはとくにそうです。ですから移民にとって“友情”とはかけがいのない、不可欠なものです。
──監督はリハーサルに時間をかけることが知られていますが、ロキタ役のジョエリー・ムブンドゥとトリ役のパブロ・シルズにはどのような演出を行ったのでしょうか。
JP:『トリとロキタ』のリハーサル期間は約5週間でした。パブロやジョエリーは実際に演じたこともなければお互いのことをまったく知りませんでした。私たちが強制するのではなく、あくまでも自然にふたりの“友情”を引き出す必要がありました。リハーサル当初、彼らはカメラに向かって喋ることさえ躊躇して、初めは何も言えませんでした。時間が経つにつれて、冗談を言ったり、自ら会話をし始めたりと、若い彼らが自分を解放して自由に話ができるようになりましたが、それまではある程度時間を費やしました。子供に演出するときに最もしていけないことは「こうやって演じて」とやって見せることです。彼らは大人のやることを真似します。それでは本当の子供らしさが出ないのです。私たちは動きだけを彼らに指示して、あとは本人達に任せました。
──冒頭ではじっと捉えられるロキタの顔が印象的です。ジョエリーの役者としての魅力をどのように感じましたか。
リュック・ダルデンヌ(以下、L):ロキタ役のジョエリーは、当初はもっと恰幅がよい女性を考えていましたが、キャスティングでジョエリーに出会い、「背の高い女性もいいな」と思い彼女にしました。トリ役のパブロは私たちが初めから想像していた通りの体つきで、車に隠れることができるくらい小さくて細い。そのコントラストが凸凹コンビのようでいいな、と思い決めました。『トリとロキタ』はこのふたりの身体の話でもあると思います。ロキタは外部からの衝撃や打撃を受ける大きな身体、トリはその衝撃を何とかうまく逃れていく小さな身体。ジョエリーは実際にロキタのように身体で感情を受け止めることがあります。ロキタの繊細さ、優しさは彼女自身が元から持っているものです。
──お二人は一貫して「他者との共生」についてを映画で描いてきました。映画作家として、使命感を感じますか?
JP:ベルギーだけではなくヨーロッパ全体の話ですが、状況が悪化しているというわけではなく、“政策がない”と言っていいと思います。つい最近も、60人あまりの子供を含む大勢の移民がイタリアの近くでボートが難破して亡くなりました。新たな移民政策を作らなければならないのです。特に若い子供たちに向けて。今の法律ではビザを持たない子供が18歳になると強制送還されてしまうのですが、18歳になっても学校に行き続けられたり、職業訓練を受けることができるようにするなど、受け入れ態勢を整えなければなりません。決してその世界の不幸をひとつの国が受け入れなければならないのではなく、ただ将来のある若者たちに仕事や学業を続けさせてあげられるような機会を与えるべきだと思います。
──『午後8時の訪問者』もそうでしたが、今作にはサスペンス映画のような緊張感があります。
L:確かに仰るようにこの映画にはサスペンスがあります。常にこのトリとロキタの二人がどうなるのかわかりません。ジャンル映画というだけでなく、観客の皆さんは「もしかしたら彼らはいなくなってしまうかもしれない、死んでしまうかもしれない」そういう気持ちでこの映画を観てくださると思います。二人の間には強い“友情”があり、この友情のおかげで彼らは逆境のなか生き抜くことができているのです。こうした撮り方をすることによって、観客の方が主人公と同化(一体化)することができる、彼らと一緒になって“怖い”とか“苦しい”とか“嬉しい”とかそういう風に感じてもらえると思います。実際に今の移民の生活というのは、まさに翌日にならないとわからない不安定な生活を送っています。
──二人が身の危険を感じる瞬間が何度か訪れます。監督の作品では人物が高所から落下する瞬間が登場します。どのような意味合いがあるのでしょうか。
L:確かに私たちの映画には落下と上昇が時折描かれます。『少年と自転車』のラストシーンではシリルが木から落下します。観客たちは「もしかしたらシリルは死んでしまったのではないか」と思います。実際は彼は生きている訳ですが、比喩的に彼は一度死んで、また生き直すのです。落下は危険や現在よりも悪い状況になることを表します。『トリとロキタ』では地下の大麻栽培施設にまずロキタが入ります。監獄のようなところです。そこへトリがロキタの居場所を突き止めて入るとき、空気孔を“下って”行きます。ロキタと会った後、トリはその空気孔を“上って”行きます。ロキタのいる地下は危険な場所であり、ロキタは依然としてそこに残りますが、トリはそこから出ることができる、それは危険や生命の安全性の関係を表しています。トリが上るとき、持っているかばんを一度ロキタに預けてから上り、その後、カバンを受け取るのはロキタがトリの危険を分け合って、協力して安全地帯へ送り出すことを意味しています。この映画の中でもっとも大きく下るのは、共に大麻栽培場を脱出したトリとロキタがボタ山を下るシーンです。その後、彼らは大きな危険に直面します。
──今回の撮影で撮影時に生まれた驚きはありましたか。
L:リハーサルで見つけた動きがいくつかあります。ロキタが大麻栽培の倉庫に閉じ込められ、そこにトリが潜り込み、ふたりが再会するシーンです。シナリオでは“ようやく再会したふたりは抱き合う”と書いてあったのですが、パブロが「抱き合うんじゃなくてグータッチのほうがいいと思う」と提案しました。実際に撮影してみると、その方が美しいし、このシーンに合っていました。シナリオ通りに彼らが抱き合ってしまったら、ロキタの顔がカメラに収まらなかったけれど、グータッチだとロキタの笑顔を撮ることができたのです。そんな風にパブロの提案により変わったシーンがいくつかありました。また撮影場所も現場で変わっていったところもあります。ベティムの厨房で3人が話すシーンはもう一つ外に部屋があり、そこで話すことも考えていましたが、撮影中に変更になりました。