「光る君へ」最終回で源氏物語の謎にアンサー チーフ演出・中島由貴が語る
吉高由里子が紫式部(まひろ)役で主演を務める大河ドラマ「光る君へ」(NHK総合・日曜午後8時~ほか)が15日、最終回を迎えた。平安時代に紫式部が書いたベストセラー小説「源氏物語」では物語の主人公・光源氏の「死」は描かれなかったが、ドラマの最終回ではまひろがその理由を藤原道長(柄本佑)に明かす場面があった。なぜ、紫式部は光源氏の死を描かなかったのか……? 長年の謎にドラマの中で一つの答えを出した理由、そしてドラマの主人公まひろの死を描かなかった理由を、チーフ演出の中島由貴が語った(※ネタバレあり。最終回の詳細に触れています)。
大河ドラマ第63作となる「光る君へ」は、紫式部の生涯を、平安貴族社会の最高権力者として名を馳せた藤原道長との深い関係を軸にオリジナル脚本で描いたストーリー。脚本を、大河ドラマ「功名が辻」(2006)や、吉高と柄本が出演したドラマ「知らなくていいコト」(2020・日本テレビ系)などラブストーリーの名手としても知られる大石静が務めた。
本作では「源氏物語」が誕生した理由を、道長が政治的な思惑をもってまひろに依頼したものとして描かれた。左大臣となった道長は娘の彰子(見上愛)を一条天皇(塩野瑛久)に入内させるも、亡き皇后・定子(高畑充希)の喪失感にとらわれ彰子を顧みない一条天皇に頭を悩ませ、一条天皇の気を引くためにまひろを彰子の女房として内裏にあがらせ「源氏物語」を書かせた。一条天皇が「源氏物語」を気に入れば藤壺を訪れ、同時に彰子に気を留めるようになるだろうという狙いだった。「源氏物語」が生まれると瞬く間に宮中で評判になり、公卿たちは「光源氏は誰がモデルなのか?」と噂した。
最終回では、まひろが死にゆく道長に「光る君が死ぬ姿を描かなかったのは幻がいつまでも続いてほしいと願ったゆえでございます」「わたしが知らないところで道長様がお亡くなりになってしまったら、わたしは幻を追い続けて狂っていたやもしれませぬ」と話す。このセリフを取り入れた理由について中島はこう語る。
「現存の『源氏物語』では、光る君が出家を決意するところまでしか描かれていません。タイトルだけが残されている『雲隠』に光る君の死去まで書かれているのでは、という説もありますが、我々としては『幻』が光る君が登場する最後の巻としています。なぜ光る君の死去まで描かなかったのか。紫式部を主人公にしながらその理由を放置するわけにはいかないぞと思い、ドラマならではの答えを提示出来たらと思いました。光る君イコール藤原道長というわけではないのですが、もし死を描いてしまったら本当にピリオドを打ってしまう、まひろと道長の関係も終わってしまう、そうなりたくはないまひろの気持ちが『幻』のまま終えようとした、そんな感じでセリフに落とし込めないかなと思い、大石さんに書いていただきました」
「光源氏イコール藤原道長というわけではない」というが、先のまひろのセリフでは、光源氏が道長を指すようにも受け取れる。結局、光源氏とは誰を指しているのか……?
「ドラマでは、もともと道長一人が光る君というつもりで描いてはいなくて。実際、紫式部も一人をモデルにしたわけではないのではないでしょうか。ものすごい知識を持った女性があれだけの大長編を書き上げるっていうことを考えた時に、そんな単純じゃないよねって。つまりモテモテのイケメン男を描きたかったわけでは絶対にないと思っていて。改めて『源氏物語』を読んだ時に、光源氏って全然いい男じゃないなと感じたので、“なんでこんな男を書きたかったのかな”ということを想像したり、紫式部の脳内に少しでもダイブしないと、ドラマに落とし込めない。いろいろ本も読んだのですが、光る君を主人公にした決定的な答えは見つからず、もしかしたら光る君には女性を照らす光であるような意味合いが込められていたんじゃないかと解釈し、台本に入れました。最終回に菅原孝標の娘がまひろに“光る君とは女を照らし出す光だったのです”と話す場面がありましたが、光る君は女性たちを照らす光という役割であり、光る君をあちこち行かせることでさまざまな女性たちを描きたかったのではないか。と、我々としては提示してみましたので、そういう意味では、まひろにとって道長はまひろを照らしてくれた光なんですよね。光が消えてしまう瞬間は道長の死を示唆することでもある。ゆえに光る君の死は書けなかったのだと」
ところで最終回に突如として登場したちぐさ(菅原孝標の娘/吉柳咲良)は、のちに「更級日記」を生んだ女性。日記には、憧れた「源氏物語」についても綴られている。彼女を登場させた理由は「作者は決して語らないであろう『源氏物語』の、我々なりに考えた解釈を語ってもらう」ことが目的の一つだったという。
「紫式部に限らず、世の作家は決して自分の物語の解釈を言わないと思うんですよね。ちぐさは『源氏物語』オタクなので彼女なりの解釈はきっとあるだろうなと。まひろと会わせたのはドラマとしての遊び心。原作者を目の前にしてどんな会話になるんだろうと考えた時に、源氏物語オタクから一つの見方を投げかけてもらおうと思いました」
ところで、昨年の「どうする家康」の徳川家康(松本潤)、一昨年の「鎌倉殿の13人」の北条義時(小栗旬)しかり、多くの大河ドラマでは主人公の死までを描いてきたが、本作ではまひろの死は描かれず、武士が台頭する中で旅立つところで幕を閉じた。中島は、ラストシーンは「最初にほぼ決まっていた」といい、主人公の死を描かなかった理由をこう語る。
「紫式部が亡くなった時期については諸説あり、定かではない。父の為時が出家した理由は娘が亡くなったからという説もあったりしますが、はっきりしたことは誰も分からない。主人公には時代の変わり目まで見届けてもらおうという話になり、ラストだけは最初にほぼ決まっていました。台本を大石さんに書いていただく際に、歴史を通しで見られるように年表を作りまして、それで万寿四年に道長が亡くなり、平忠常の乱(長元元年/1028年)が起きるという点に着目したのです。実際には武士の時代はまだ先なのですが、道長の死後、まひろがそういう気配を感じて終わる方がいいんじゃないかと。セリフもその時点で決まっていました。“嵐が来るわ”と言って終わりましょうというのは」
ラストは、初回から為時邸に残り続けた空の鳥かごをまひろが外し、従者・乙丸(矢部太郎)と共に旅立つさまが描かれたが、これには「鳥のように飛び立ち、戻らない」ニュアンスが含まれているという。(編集部・石井百合子)