人は、長い人生の浮き沈みの中で、勇気付けてくれるような曲に何度か出会うのではないだろうか?
それは曲として、力強い抑揚のある詩(ことば)が音感として胸にこだました時ではないだろうか? それぞれの曲がもたらした影響力は、世代や国が違っても、人々に愛され続け、我々の人生を彩ってきた。
かつてフランスの国民的象徴であった歌手エディット・ピアフも人々に勇気を与え、苦悩のどん底に希望という光を照らし出した。彼女のバラードは、孤独な人々に、まるで誰かと繋がっているような感覚を与え、彼らの心を抱擁してきた。今回は、そんな彼女の不遇だった少女時代から華々しい人生の幕を閉じるまでを描いた作品『La Vie EnRose』(米題)でピアフ役を演じたマリオン・コティヤールと監督のオリビエ・ダーハンにインタビューし、ピアフのあまり知られてない過去なども語ってもらった。
Q: これほどフランスの国民に愛されてきたピアフを演じるのに、抵抗や恐怖を感じませんでしたか?
(マリオン・コティヤール) 本当は、彼女の人生に関しては、全く知らなかったんです。撮影前に、彼女の実生活を調べ始めてすぐに、どこか親近感を抱いたんです。そのため、彼女がフランスの象徴であったことはあまり意識せず、それよりむしろ、晩年に病気などで、実際の年齢より老いた役を演じなければならないことに抵抗感がありました。
Q:あなたは映画『Les jolies choses』で曲を書かれ、歌われてもいましたが、この撮影に入る前にどれくらい訓練されたのですか?
(マリオン・コティヤール) 実際は、私が歌ったのではないため、真剣に彼女の歌声をまねようと訓練したわけではなかったのですが、撮影前と撮影中は、毎日彼女の歌を歌ってました。単に口パクといっても大変難しいもので、1/4秒くらいのタイミングで、口元を合わせるだけじゃなく、歌う時の体全体での表現も必要で、特に重要だったのは呼吸法でした。それは、無声状態の秒間が歌声より際立ってくるため、彼女の呼吸間隔もマスターしなければなりませんでした。
Q:それでは、彼女の曲を初めて耳にした時や、写真などで目にした時の印象はいかがだったのですか?
(マリオン・コティヤール) 私の祖母がピアフの大ファンで、彼女の曲を子どものころに聞いたときは、その声の力強さが印象深かったです。製作する前に見た写真やインタビュー映像と、彼女が女優として出演した作品(『フレンチ・カンカン』『光なき星』)から重要な資料を見出し、その中で、彼女の精神力の強さ、たくましさ、また逆に虚弱、病弱なイメージと両極面を持ち合わせている彼女の繊細さに惹(ひ)かれたんです。
Q:撮影中は、メイクアップが大変でしょうから、先に若年から撮り始めたのでしょうか?それと大変だったメイクアップのプロセスについても話してください。
(マリオン・コティヤール) 順番どおり年代ごとに分けた撮影はせず、また脚本どおりの撮影でもなかったんです。その撮影方法が私にとって救いだったのは、年代ごとにポイントを見つけ出し、彼女を特徴付けることが出来たんです。メイクアップは、顔にプラスティク状のものを接着させて演じていたので、それを剥がした際には、私の皮膚が耐えきれず、暫く休憩を取ったこともありました。おそらく4か月半の撮影で30日くらいメイクアップをしていたんです。
Q:波乱万丈の人生を歩んだ彼女は、当然のように感情の起伏は激しかったわけで、その点ではどういうアプローチをしたんですか?
(マリオン・コティヤール) 長年一緒に住んでいた祖父の兄が病気だったために、上手く体が動かせなくて、苦しんでいた時を思い出しながら演じていたんです。女優は、そういった生活の中からきっかけを作って演じることもあると思います。私自身は、ピアフのように最愛の人を失ったことはありませんが、私の人生の中でも、失ってきたことは山ほどありました。もちろん、それぞれのシーンの感情は違いますが、私にとっては経験してきたことをその場で演技として当てはめていくだけなのです。
Q:この映画に関わり、脚本などを通して、ピアフからあなたは一体何を学びましたか? そしてピアフは何を探し求めていたと思いますか?
(マリオン・コティヤール) 学んだ点は、うまく説明できるかわかりませんが、普段自信のある女優でも常に自信があるわけでなく、ないままの状態でもいいということです。それは自分をそのまま曝け出して、逆にそれがある意味、自分の内部を鍛えることになると思います。それとピアフは、ずっと愛を探していたのではないでしょうか? 子どものころに両親に見捨てられたら当然のごとく、人生ずっと愛を探し求めることになるのでしょうから。
Q: キャスティングの過程でどれだけの女優をオーディションしたのでしょうか?
(オリヴィエ・ダーン) 実は、脚本を書いている時点からマリオンにしようと思っていたので、キャスティング・オーディションはしませんでした。プロデューサーは、念のため他の女優2人に会ってみてくれと指示してきて、一応会ったのですが、彼女が適役だという気持ちは変わりませんでした。
Q:見事にその時代の雰囲気が映像に映し出されています。少しプロダクション・デザインについて語って頂けますか?
(オリヴィエ・ダーン) 撮影に入る前の下準備の時間があまりなかったうえ、予算も少なかったし、絵コンテなんかもありませんでした。幸いにも、僕とこれまでずっと働いてきた美術の人達が、翌日セットの塗料が乾いてないこともあるくらい、毎夜ろくに寝る時間もないくらい精を出して働いてくれました。
Q:この撮影に入る前に、ピアフの映像をどれだけ研究されたのですか?
(オリヴィエ・ダーン) 彼女の初期の頃の映像やら写真はあまり残っておらず、ほとんどその当時の衣装デザインは、スタンリー・キューブリックやアン・リー等と仕事をしたことあるマリット・アレンが時代背景を的確に捉えてやってくれました。見事に映像にすることができたと思います。
Q:ピアフを見出したルイ・ルプレーとの関係は、どいうものだったんでしょうか?それとジェラールド・ドパルデューとの撮影中のやり取りを教えてください。
(オリヴィエ・ダーン) ルイ・ルプレーは、道端で歌っていたピアフの才能を信じて、ナイトクラブの観客の前で歌わせる機会を与えていた人でした。(ちなみにルプレーが『La Mome Piaf』=小さなスズメという愛称を与えた)。ジェラールドは、非常にひょうきんな人で、私にとって仕事がしやすく、なんとなくピアフに似ている要素も持っている人だと思います。特に彼から指示を受けたことはなく、その上、私に熟練の俳優だという意識を与えず、まるで若手の俳優と仕事をしているみたいにやり易かったんです。貴重な体験でした。
Q:最後に、ピアフが後に見出したイブ・モンタンとのシーンがあまりないのですが、カットされた部分が多かったのでしょうか?
(オリヴィエ・ダーン) イブ・モンタンとは3つのシークエンスだけで、ほとんどカットされていません。脚本の過程で、ピアフのストーリーを重要視し、ほとんどのシーンをそぎ落としてしまいました。
ピアフのハスキーでややしゃがれた声にも関わらず、情緒あふれた歌唱力は、我々が辛い時期に直面した時にも、豊かな感性で力強く生き抜いていこうと感じさせる。彼女の死後、今はただ私達の耳には、熱唱する声だけがこだましている。
細木プロフィール
海外での映画製作を決意をする。渡米し、フィルム・スクールに通った後、テレビ東京ニューヨ-ク支社の番組モーニング・サテライトでアシスタントして働く。しかし夢を追い続ける今は、ニューヨークに住み続け、批評家をしながら映画製作をする。
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