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1981年に任天堂からアーケードゲームとして登場した「ドンキーコング」。その2年後、ファミリーコンピューターでも登場し、人気を博しました。おそらく小さいころに、テレビ画面を凝視し、ひたすら夢中でやっていた経験のある人には、懐かしく感じるのではないでしょうか。そしてこのゲームで初めて登場したキャラクターのマリオが、後に「スーパーマリオブラザーズ」シリーズとして世界中に爆発的なブームを巻き起こしたのです。もちろんこの騒ぎは、アメリカのオタクたちをも夢中にさせました。それは1982年、アメリカ雑誌「ライフ」が、世界中からより優れたプレーヤーを集め写真撮影を行うほどでした。そこに招待された中の1人に、「ドンキーコング」のスコア世界記録保持者ビリー・ミッチェルがいました。このとき、彼がたたきだした記録は、その後20年もの間破られることはなかったのですが、ついにこの記録に、中学校の科学教師スティーブ・ウィービーが挑みます! 今回は、この夏一番話題になったドキュメンタリー映画『ザ・キング・オブ・コング』(原題)を監督のセス・ゴードンとプロデューサーのエド・カニンガム、そしてプレーヤーであるスティーブ・ウィービーから話を聞いてみました。
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Q: まずは、この映画を製作するに当たって、どういった経緯で企画が進められたのでしょうか?
(エド・カニンガム)まず始めに、わたしたちが幸運だったのは、共通の友人を通してスティーブ・ウィービーに出会えたことでした。ちょうどわたしとセスが、映画『ニューヨーク・ドール』を撮り終えて、編集段階に入り、今度の作品をどうしようかと考えていたときに、スティーブに会いました。彼は「ドンキーコング」を熱く語ってくれたうえに、最近のインターネットのゲームの流行が、過去のゲームの達人を再会させる接点にもなっていると話してくれました。そこで我々はネット上などで、ゲーム業界を調査し始めたのです。いろいろ調査し、そしてキャストをどうするか考えたとき、一番最初に出会ったプレーヤーのスティーブがこの映画に適していたんです。
(セス・ゴードン)わたしがインターネットでリサーチを始めたとき、子どものころ一番気に入っていたファン・スポット(フロリダ州にある子どものためのテーマパークで、約120台ものゲーム機が置いてあり、ここでよく大きな大会が開かれる)に、スティーブが行く可能性があることを知って、それだけで興奮して乗り気になったんです。この「ドンキーコング」のほかにも、「パックマン」などたくさんゲームがあったんですが、調べていくうちに、だんだんまるで道しるべをたどるように、すべてのゲームが、ビリー・ミッチェルという人物につながっていました。彼は、「パックマン」ではパーフェクトスコアを獲得し、「ドンキーコング」では世界最高記録を持っていたからです。最初にビリーに会ったときに、すぐに気が付いたことは、会話の中で彼は絶対にスティーブと言う名を口に出さないんです。それが、逆に優しさに満ちあふれたスティーブの性格といい意味で対極になると思いました。 |
Q:映画を観ていると、ビリー・ミッチェルは、カメラが回っていることを楽しんでいるように見えましたが、あなたは撮影に対しての抵抗などはありましたか?
(スティーブ・ウィービー)わたしはむしろ撮影を歓迎しました。撮影前には、なかなか自分が出した記録を承認してもらえず、もう止めようかと思っていた時に、彼ら(撮影クルー)がやってきて、わたしの声がほかに届くようにしてくれたんです。
Q:あなたはゲーム業界から何を学びましたか?
(セス・ゴードン)ビリーやスティーブは、唯一お互いの技術の高さを賞賛できるレベルにあり、そのうえ彼らは、キル・スクリーン(あるステージまで行くと、ゲームを継続できずに終わるステージのこと)まで登り詰めるほどの実力を持っていますが、彼らはお互いを賞賛をせずに、むしろライバルとして意識し合っていることが、面白いところだと思います。
Q:この映画の評価は高いと思いますが、ビリーのリアクションはどうですか?
(エド・カニンガム)彼はこの映画を嫌悪していて、いまだに観ていないのです。わたしたちは、4、5回観てもらうようにオファーしたのですが、すべて却下されてしまいました。配給会社のピクチャーハウスが、彼の住む近くの映画館で鑑賞させようとしても駄目でした。しかし彼は、この映画がインターネットで騒がれていることは知っていると思います。
Q:あなたは、どのような精神状態でゲームにチャレンジしているのですか?
(スティーブ・ウィービー)ある程度のレベルまでいくと、プレーしているスピードがリズミカルになり、それをずっと楽しめるんです。そこに達する前は、モノトーンな感じでつまらないものですがプレーしている間は、何が起こるかわからないので、プレーし続けることが大切なんです。カメラの前でプレーすることは、人によって違うでしょうが、わたしのときは、始めのうちは、あまり客が後ろで観ていなかったし、自分自身の思い通りにプレーができました。そして客が入ってからでも、自分の世界に入ってプレーをしていました。また背後の観客の声援がポジティブに感じ、そのお礼として、彼らにキル・スクリーンのステージを見せてやろうとまで思えましたね。 |
Q: すでに、この映画をドラマという形で、リメークする話が決まり、その作品をあなたが監督すると聞きましたが、その話を聞かせてもらえますか?
(セス・ゴードン)映画会社のニューラインシネマの常務にリチャード・ブレナーという方がいます。この方が、このドキュメンタリーを繰り返し鑑賞してくれて、こういった形の素晴らしい機会をおぜん立てしてくれたのです。ピクチャーハウスは、ニューラインシネマの傘下にあって、その関係でリメークの権利を買えたわけです。もちろん、俳優を使ったフィクション・バージョンですが、ほとんどは、このドキュメンタリーを反映したものになるでしょう。
Q:この作品に任天堂からのファイナンシャル・サポートは、ありましたか?
(エド・カニンガム)ドキュメンタリーの場合は、版権を侵害せずに合理的な方法で撮影できれば問題ないのですが、脚本で書かれている場合は、そういうわけにはいきません。この映画を「ドンキーコング」中心にして撮ると決めたときに、任天堂に電話をしてみたのです。その際に話した代表の方は、後に作品を鑑賞し気に入ってくれました。彼らは、マーケティングの方々と連絡を取り、ゲーム業界にこういう映画があると紹介してくれているみたいです。この映画に関して任天堂からファイナンシャルの面でのサポートはありませんが、今後リメークする際に、任天堂から恩恵を受けたら非常に光栄なことです。 |
わたし自身、小学生の時に一時期ファミコンをやったことはあったのですが、特別なゲームファンでもないうえ、プレーステーションやWiiなども全く知らないため、この映画を鑑賞する前は、ゲーム業界に対して興味が薄かったのです。しかし鑑賞後にゲームの奥深さを知り、再び少年時代のような気持ちに舞い戻り、少しチャレンジしてみたくなると感じさせてくれた映画でした。 |
細木プロフィール
海外での映画製作を決意をする。渡米し、フィルム・スクールに通った後、テレビ東京ニューヨ-ク支社の番組モーニング・サテライトでアシスタントして働く。しかし夢を追い続ける今は、ニューヨークに住み続け、批評家をしながら映画製作をする。 |
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