政治スピーチ、セクハラ問題を40年前から予想?『ジュリア』が見せた未来予想図
名画プレイバック
1978年の第50回アカデミー賞において11ノミネーション、3部門(脚色賞、助演女優賞、助演男優賞)を受賞した『ジュリア』(1977)。アメリカの劇作家で、映画『噂の二人』のオリジナル戯曲「子供の時間」などを手がけたリリアン・ヘルマンによる回顧録中の1編をフレッド・ジンネマン監督(『地上(ここ)より永遠に』『わが命つきるとも』)が映画化、執筆に苦しむリリアン(ジェーン・フォンダ)と彼女の幼友だちの女性ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)との長い友情、そしてリリアンと同棲する推理小説家のダシル・ハメット(ジェイソン・ロバーズ)との愛を描く。(冨永由紀)
年老いたリリアンが若き日の親友について独りごつ、回想形式で始まる物語は、彼女が作家として歩み始めた第2次世界大戦前夜の1934年から1937年、ジュリアと少女時代や青春時代を過ごした1910~20年代を行き来する。アメリカの上流家庭に生まれたジュリアは、海外ドラマ「ダウントン・アビー」のような環境で何不自由なく育ちながら、十代の頃から社会に目を向け、世間の矛盾や差別に対して声を上げることを恐れない女性に成長する。対するリリアンは引っ込み思案で、活発で行動的な幼ななじみに憧れまじりの親しみを抱きながら友情を育んでいった。
イギリスのオックスフォード大学に進学した後、オーストリアのウィーンで医学を学び始めたジュリアは反ナチス活動に身を投じる。一方、思うように執筆が進まず、自信を喪失して荒れるリリアンは、厳しくも愛情あるハメットの勧めもあって環境を変えようとパリへ向かい、安ホテルに投宿して戯曲の執筆に取り組み始める。そんな中、パリの街でもファシストの暴動が起き、日常は不穏な空気に包まれていく。
ときどきウィーンのジュリアと電話で話していたリリアンは彼女を訪ねたいと持ちかける。ジュリアは「盗聴されているかも」と細かい話を避けようとするが、リリアンは電話盗聴という行為を初めて知るという呑気な境遇だ。彼女が初めて過酷な現実と直面するのは、ジュリアが入院したとの報を受けてウィーンに赴いた時だ。ジュリアは200人の死者が出た暴動に巻き込まれ、全身を包帯に巻かれて口も聞けない状態だった。目と目を合わせ、ジュリアがわずかに動く右手でリリアンの手を取るだけのコミュニケーション。原作通りのレッドグレーヴの大きな手を映す、それだけで多くを表現してみせるジンネマン監督は1907年にオーストリアのユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。大学生の頃から映画を志し、パリに渡って映画作りを学び、世界恐慌の起きた1929年に渡米。1905年生まれのリリアン・ヘルマンと同時代を生きた彼にとって、ファシズムが台頭していくウィーンの風景は他人事ではなかったはずだ。短い描写だが、暴動シーンは強烈な印象を残す。押し寄せた群衆が歓声を上げながら、狙った相手を胴上げするかのように担ぎ上げて階上から地面へと放り投げる。その異様な高揚と野蛮さは、時代の記憶が作り手側自身に生々しく残っているからこその演出だ。残酷さだけなら、例えばタランティーノ作品などの方がどぎついが、『ジュリア』のこの場面は、自らを正義と疑わない集団の狂乱を恐ろしいほどリアルに描き出す。ジンネマン監督の両親はホロコーストの犠牲となり、彼はその事実を戦後に知った。愛する大切な人を救えなかったという悔しさと悲しみを、ジンネマン監督はヒロイン、リリアンと共有している。
聡明で勇敢なジュリアを演じるのにレッドグレーヴ以上の適役はいない。リリアンは劇中でジュリアについて「優雅で強靭、繊細」と評するが、気品と意志の強さを全身から放つ長身のレッドグレーヴは女王のように堂々としている。創作の苦しみと向き合いながら、惜しみない尊敬と友情の対象であるジュリアのために、やがて命がけの冒険に臨むリリアンを演じるフォンダは、微かな劣等感を抱えたヒロインのナイーブな純粋さと強さを表現する。
その後リリアンはアメリカに帰国し、処女作の戯曲「子供の時間」で成功を収め、1937年にモスクワ演劇祭に招かれる。最初に立ち寄ったパリで再びジュリアと連絡を取った彼女は、「頼みごとがある」とベルリン経由でのモスクワ行きの話を持ちかけられる。ユダヤ人であるリリアンにとって、ナチスが支配するベルリン行きは危険な選択だが、彼女は迷わずビザの申請をする。数日後、リリアンが宿泊する高級ホテルに不似合いな質素な身なりの男が訪れ、ジュリアから託された旅の手順を伝える。ここからの展開はサスペンスだ。
リリアンに与えられた使命は、ジュリアたちの活動資金5万ドルをベルリンまで運ぶこと。無理をしかねない親友を思ってか、「できないと思ったら、やらないで」というジュリアのメモが添えてあったが、悩んだ末にリリアンは約束の日時に約束の場所、パリの北駅に向かう。駅での待ち合わせからベルリンへと向かう列車の旅は緊張感にあふれ、間一髪の状況の連続だ。言われるままに動くことしかできない受動的なリリアンは、帽子やチョコレートの箱など、淑女のアイテムを目くらましに使うアイデアに観客と一緒になって驚き、不器用に危ない橋を渡っていく。
本作でフォンダとレッドグレーヴの共演シーンはごくわずかだ。そもそもジュリアの登場シーン自体が少ない。だからこそ、リリアンとジュリアがようやくベルリンで再会を果たす場面が胸に迫る。片足を失い、やつれも見えるのに、凛として優しい笑顔で親友を迎えるジュリアは神々しいほど美しい。「あなたみたいな人は他にいない(You still look like nobody else)」と言いながら、懐かしさに思わず涙ぐむリリアンの甘さにもまた共感を禁じえない。常に密ではなくとも長年培ってきた友情と信頼は、簡潔な会話と女優2人の表情で雄弁に語られる。フォンダは実人生において、レッドグレーヴに憧れていたという。共演するよりはるか前の60年代に誕生した娘にヴァネッサと名付けたほど。そして劇中ではジュリアが自分に娘が生まれ、「リリー」と名付けたと告げる。ジュリアとリリアン、レッドグレーヴとフォンダの関係性が虚構と現実をなぞるようだ。
この2人は1972年の第44回アカデミー賞で、それぞれの作品で主演映画賞にノミネートされ、晴れてフォンダが『コールガール』で受賞した。ベトナム戦争の反戦活動家でもあった彼女はスピーチでベトナムについて触れるつもりでいたが、「政治を持ち込むな」という名優である父、ヘンリー・フォンダのアドバイスに従った。その数年後、レッドグレーヴは『ジュリア』で助演女優賞を受賞した。同時期にパレスチナ人とパレスチナ解放機構(PLO)を扱ったドキュメンタリーを製作、ナレーションを務めた彼女を候補に入れたことに対して、ユダヤ系の政治団体がノミネーション発表直後から抗議活動を開始、授賞式当日もピケを張る騒動になった。受賞スピーチでレッドグレーヴは彼らを「ごろつきども」と強い言葉で非難し、ブーイングを浴びた。後に脚本賞のプレゼンターとして登壇した脚本家のパディ・チャイエフスキーは「アカデミー賞を個人的な政治プロパガンダに利用する人々にはうんざりする」と名指しで彼女を非難し、会場は拍手喝采に包まれたが、テレビ中継ではその輪に加わらなかったシャーリー・マクレーンの姿を映している。40年後の現在、受賞スピーチではむしろ何かを言うことが望まれる空気だが、『スリー・ビルボード』でゴールデン・グローブ賞主演女優賞を受賞した際のフランシス・マクドーマンドや72年のフォンダのように、敢えて口にしないという選択ももちろんある。
それにしても、40年前に作られた80余年前の物語は過去のものとして片づけられない。よく似た道をたどり始めているような現在から見た未来予想図のようでもあり、終盤に登場するリリアンとジュリアの旧知の男性との会話は、偶然にも昨今のセクハラ問題を想起させる。彼の妹(これが映画デビュー作だったメリル・ストリープが演じている)とリリアンの不仲を茶化すことから始まった会話は、彼自身が冒したタブーの武勇伝語りになり、最後はリリアンとジュリアの関係に下衆の勘繰りを入れてのアウティングの試みとなる。実はこの役を演じたジョン・グローヴァー自身は同性愛者であることを公表している事実も興味深い。
リリアン・ヘルマンの原作は、彼女の短編集「Pentimento」(「ジュリア」(ハヤカワ文庫))に収められている。ヘルマンは、ジュリアの物語は事実だとしていたが、その大半がフィクションであることは後に検証されている。ペンティメントとは、カンバスの上に何度も重ねて描かれた油彩画が経年によって、完成作の下に塗りつぶされた絵が透けて見えてくる現象を指す。ヘルマンはなぜ “ペンティメント”という言葉を選んだのか。作り話を重ねていった後に透けて見えてくるのは、全てを乗り越える友情の強さ、美しさという真実だ。