『娼年』松坂桃李 単独インタビュー
セリフではない、体と体の対話
取材・文:浅見祥子 写真:日吉永遠
衝撃的な内容で話題を呼んだ石田衣良の恋愛小説「娼年」。三浦大輔演出と松坂桃李主演での舞台化に続き、同じ監督&主演でR18+作品として映画化。松坂桃李が演じるのは“娼夫”という仕事を通してさまざまな女性の奥深い欲望と向き合い、それを受け止めて成長していくリョウ。躊躇なくすべてをさらけ出し、肉体の触れ合いを通して変化する心情を繊細に演じた松坂。その俳優としての挑戦に迫った。
舞台から映画へ、より繊細に
Q:映画『娼年』を観ながら、これを舞台でどう表現したのだろうと思いました。
内容的にはわりとそのままだと思います。ただ舞台の場合は客席へステージの一部が張り出していて、そこにベッドが置かれていました。ですから前方からだけではなく、横からとか斜めからとか、あちこちから観られている状態でした。
Q:しかも微妙な表情の変化などが重要に思えたので、これを舞台でどう表現したのだろう? と思いました。映画化については?
映画化の話があったときに、三浦監督が「ようやくこれで『娼年』が完成する」とおっしゃっていて、確かにそうだなと。舞台と違って映像では、表情でも体とのコミュニケーションでも、より繊細な部分を描くことができます。そこは僕自身も、キチンとカタチにしたいという思いがあったので、映画化の話を聞いたときはうれしかったです。
Q:同じ作品でも撮影は、舞台より大変でしたか?
また違った大変さでした。舞台では物語の流れをノンストップで演じるので、体力的な大変さがあります。でも映像になってくるともっと繊細な部分、奥深いところを攻めていかないといけないので精神的に大変でした。セリフのやり取りではなく、体と体の対話、ボディ・コミュニケーションによって生まれる表情や伝えたいことがあるわけです。お互いの中にある、傷つきやすくて柔らかいものを提示し合って会話するというのが、この作品の核だと思うので、撮影中はずっとその難しさを感じていました。もちろん一人一人が持っている“柔らかさ”には違いがあるので、それをやり取りするときの繊細さもあります。それでいて撮影スケジュールが厳しく、体力的な大変さもありました。
さらけ出したウソのない芝居
Q:全シーンに絵コンテが用意されていたそうですね?
リハーサルも重ねましたし、撮影現場に入ってから、途中で変わったりもしました。それで本番ではすべての動きが決まっていたわけですが、今回は体での会話ですから、そうしてあらかじめ決めておかないとセリフがないのと同じです。やってはいけないと言われていたわけではありませんが、動きの面でもアドリブのようなものは一切ありませんでした。本番ではそうしてつくり上げた動きに感情を乗せていくわけで、リハーサルとの違いというのは、そこに込められる熱量が違うくらいでした。
Q:三浦監督の演出は、俳優にさらけ出させることに容赦ないという印象がありますが?
三浦監督がさらけ出させるというのは、お芝居の上でのことだと思います。僕はまず舞台でご一緒して、映像でも演じて思うのは、芝居でウソをつくことを厳しく見破る方だなと。いまおっしゃった「さらけ出させる」というのは、きっとそういう意味だと思います。おまえの素を出せよ! ということではなく、その芝居は本当にいま起きた感情ですか? と。ですから芝居でウソをつけなかったです。
リョウは優しさを持ち合わせた人
Q:「そろそろこういう役がやりたかった」とおっしゃっていましたね?
今年30歳になるので、いましかできない役というのが絶対にあると思うんです。『娼年』のリョウという役もそうです。30歳になってからまた違う景色を見るために、30歳になる前にやっておくべき作品だと感じました。そういう意味でも、タイミング的に運がいいと思ったし、この役に出会えて本当に良かったと思っています。
Q:リョウって、かなり柔軟性のある人ですよね?
もともと大きな優しさを持ち合わせた人のように思いました。それを本人はずっと気づかずに過ごしていたけど、女性と出会っていく中で、自身の器の大きさを理解し始めたのだと思います。
Q:リョウは相手によっても行動が変わるし、物語の中で成長していく役です。いろいろな面を見せる必要がある役だと思うのですが、その中で揺るぎなく大切にしていたものは何ですか?
いかに女性の細かい部分をキャッチできるかということです。会話より体でのコミュニケーションのお芝居を見せていくので、そこの繊細さを見逃さないようにすることです。表情や熱量、呼吸一つ取っても相手によって変わるので、そこのアンテナの張り方に気をつけていました。それによって、こちらの表情も変化していきました。
Q:するとやはり、相手役の女優さんとの関係性も大事ですよね?
そうですね、その信頼関係は大事です。舞台のときは稽古から公演まで時間があったので、いろいろと話をしながらつくり上げていきました。でも映像ですと、長い方でも撮影期間が3日間しかなかったりするんです。女優さんからすると、それはやっぱり怖いですよね。そこは僕と三浦監督とスタッフとで、自然と安心して臨んでいただけるような環境を作ろうとしました。つまりは撮影現場の空気感のようなものですね。わりとフラットでいることが重要だと思っていました。撮影に入るとどんどん感覚が麻痺し始めるので、自分たちはごく普通の芝居をしているという感覚に陥ります。それがいい方向に作用して、そこからスタートするというか。
ヘンな生々しさは感じない
Q:仕上がった作品を観た感想は?
日本映画っぽくないと思いました。カメラマンの田中創さんはテレビCMや広告で活躍されている方で、長編映画を撮るのは初めてでした。そのせいもあるのか、日本映画を思わせない照明やカメラワークで、フランス映画のようだなと。ヘンな生々しさがなく、それがこの映画のバランスを保つ大きな要素になっていると思いました。そうでなかったら、2時間も観ていられないかもしれません。
Q:映像になったときのそうした感覚は、撮影しているときに意識していなかったのでしょうか?
たまにあるのですが、撮影現場に入った瞬間に、この作品は悪い方向へは行かないなと思えることがあります。舞台を経た撮影だったことも大きいかもしれません。監督が舞台で演出しているからこそ、映像ではこうした方が絶対にいいという明確な答えを持っていて、だからこそまとまりやすかったのだと思います。監督もヘンな生々しさを持たないようにと意識していたそうです。
Q:どのシーンも細かく動きが決められた中でお芝居をするというのは、アクションに近いのですか? 舞台を経たことにより、そうしたお芝居はより巧みになるものでしょうか?
動きの中で芝居の幅をつけていくという意味では、アクションに近いと思います。でもそれが舞台を経て、うまくできるようになったかどうかはわかりません。できる人は、最初からうまいのかも(笑)。僕ができた映画を観ながら考えていたのは、客観的に観て、これが日本の観客の方に受け入れられるかどうか? でした。作品としてはまず、表面的なところが入口になりますよね。それは間違いじゃないし、入口はそれでいい。でも、映画が始まって15分くらい経ってからが、この映画の本当の始まりです。
ここ2、3年の松坂桃李は、かなり面白いことになっている。映画でも連ドラでも、主役でも脇に回っても、作品の軸として揺るぎなく存在したり、求められる立ち位置にオリジナルな遊びを持たせて微妙なバランスを保ったり。明らかに俳優としてのふり幅が増していて、常に期待を上回る演技でその存在は光っている。映画『娼年』での彼もまた、主役として的確で力強く作品を牽引する姿に圧倒された。写真撮影の際街角に立った彼は、日常の空気に違和感をもたらすほど際立った存在でもあって、あらためてスターな人なのだ……と実感した。
映画『娼年』は4月6日より全国公開