『追想』に見る、性革命前の若き男女のセクシュアリティー
コラム
第二次世界大戦後、ヨーロッパほど経済的に疲弊していなかったアメリカではベビーブームが起きました。その子供たちが60年代前半にはティーンになり、フォーク、ジャズやロックと結びつき、ビートニクを始め様々なサブカルチャーが生まれました。それらはやがてイギリスにも浸透。そんな若者文化がイギリスを席巻する直前の1962年を舞台に、2人の若い男女のラブストーリーを描いた映画が『追想』(8月10日公開)です。本作の背景である、60年代前半のイギリス社会を覗いてみましょう。(文:此花さくや)
■母親世代と変わらない保守的ファッション
資本家階級の娘フローレンス(シアーシャ・ローナン)は、大学を卒業したばかりのヴァイオリニスト。夢は大きな楽団に入ることではなく、自分のカルテット(四重奏)を率いることでした。そんなフローレンスの服装は、ウエストがキュッとしまりスカートがふんわりと広がった、50年代にディオールが発表したAラインの影響を受けた保守的なもの。本作の衣装デザイナーであるキース・マッデンによると、1962年は若者文化がメインストリームになる直前で、若い女性のファッションは母親世代とほとんど変わらなかったそうです(*1)。当時若者の間で人気になりつつあったジャズやロックではなく、クラシック音楽を愛するフローレンスは、保守文化の象徴だと考えられます。
■チャック・ベリーとビートニク
一方、ロックの元祖と呼ばれるチャック・ベリーを好むフローレンスの恋人エドワード(ビリー・ハウル)は、労働者階級出身で若者文化を暗示しているようにも。大学卒業試験に合格したばかりで歴史学者を目指すエドワードの服装は、この時代に若者から支持を受けていたビートニクの影響を受けています。
ビートニクとはビート・ジェネレーションと呼ばれ、50年代後半から60年代半ば頃まで活躍したジャック・ケアルックやウィリアム・バロウズといったアメリカ人作家に代表されます。彼らはチノパンにクルーネックのセーター、作業用のシャツ、着古した軍服にサンダルやスニーカーを合わせて、ファッションに“無関心を装っている”ように見せ、伝統的社会に対する反抗を表現しました(*2)。
エドワードは着古したジャケットを肩にかけて、太めのチノパンとスニーカー風の靴を合わせていますが、この太いチノとスニーカーはビートニクのファッションアイテム。フローレンスはエドワードがきちんとした靴を履かず、「靴はいつもズック(Plimsoles)」と冗談交じりに妹に言いますが、この“Plimsoles”というのはスニーカーとは違い、学校内で履く上履きのようなもの。スニーカーが高価で買えなかったからなのか、ファッションに無関心だったからなのかは分かりませんが、革の靴を履くという保守的なスタイルにエドワードは抗っていたようです。
■ザ・ビートルズの登場で爆発する若者文化
エドワードの前髪を下ろした髪型や細めのネクタイも若者文化的スタイルです。これは60年代に一斉風靡した“モッズ”風。50年代後半から60年代半ばにかけて、アメリカの若者文化の影響でロンドンのカーナビー・ストリートには若者向けのブティックが続々と開店し、このエリアにたむろする若者はモッズと呼ばれました。下ろした前髪、ミリタリーコート(後にモッズコートと呼ばれるM-51)、細めのスーツとネクタイ、スクーターなどが典型的な特徴です。
そして、本作の舞台と同じく1962年、モッズ・ルックでレコードデビューしたのがザ・ビートルズです。60年代を代表するロック・バンドのザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズは、アメリカから浸透しイギリスで進化したサブカルチャーを包括したポップカルチャー“スウィンギング・ロンドン(とんでるロンドン)”を世界中へ発信しました。その結果、60年代半ば頃からカウンターカルチャー(既存の社会に対抗する文化)である若者文化が爆発的に広がったのです。
■劇的変化を及ぼした“性革命”
60年代に起きたカウンターカルチャーはほかにもあります。それは、“性革命”。人々の“性”に対する意識が劇的に変わり、婚前交渉、10代の妊娠や婚外子が増加したと言われています。60年代の性革命は、人権運動、フェミニズム、避妊ピルやペニシリンの発見と結びついて起こったのだとか。梅毒を治療できる抗生物質のペニシリンが人々の性生活をより自由にしたという説もあります(*3)。
劇中では、新婚旅行に旅立つ前、フローレンスがセックスを本から学ぶシーンがあります。性の革命が起こる前は、女性の婚前交渉やマスターベーションもタブー。イギリスでは1967年まで同性愛が違法でした(*4)。夫とセックスをし子供を作ること以外に、女性のセクシュアリティーは社会的に認められていなかったのです。
案の定、セックスをしたことのなかった2人の初夜は上手く行きません。しかも、フローレンスには、セックスを恐れるある秘密がありました……。ですが、フローレンスがエドワードにこの秘密を打ち明けることはなく、彼らの結婚生活はたった1日で終わってしまうのです。
■カウンターカルチャーの衰退
60年代半ばにピークを迎えたモッズ・ブームは、モッズたちが大人になり、消えていきました。そして、ベトナム戦争反対を発端にヒッピー・ムーブメントが60年代中盤頃から台頭しました。そして、70年代半ばにはベトナム戦争が終結に向かい、経済危機が影を落としたことなどにより、ヒッピー・スタイルも衰えていきました。1975年、髪を伸ばしレコード店を経営するエドワードは、いまだにカウンターカルチャーに生きているように見えます。反面、フローレンスは大人の世界で自分の居場所を見つけたようにも……。
保守文化の中で生き続けるフローレンスと、伝統的な社会になじめなかったエドワード。愛し合っていてもすれ違ってしまった2人の物語を通して、本作は60年代に起きた保守文化と若者文化の衝突を描いているのではないでしょうか。
【参考】
*1…劇場用プログラム『追想』
*2…P-Vine Books『メンズウェア100年史』キャリー・ブラックマン著 桜井真砂美訳
*3…The Wages of Sin: How the Discovery of Penicillin Reshaped Modern Sexuality
*4…Coming out of the dark ages - The Guardian