ファッションをエンターテイメントにしたヴェルサーチ
映画に見る憧れのブランド
第2次世界大戦終結の翌年、1946年にイタリアの南西端レッジョ・カラブリアで生まれたジャンニ・ヴェルサーチ。父は自営業を営み、母はレッジョで一番と言われるドレスメーカーでした。
ヴェルサーチといえばギラギラとしたバブルファッションを思い起こす人も多いかと思いますが、ゴージャスでセクシーなスタイルにはジャンニの確固たる信念が込められていました。今回はジャンニが遺した功績と暗殺事件を追っていきたいと思います。
両極性をミックスして新しい美を創造したワイルド・バロック
1965年、19才になったジャンニは母のアトリエの隣にブティックを開きながら縫製を学んでいましたが、自身がゲイであることから保守的な故郷から抜け出したいと切望していました。1970年代になると、当時モードの発信地として急成長していたミラノに転居し、有名ブランド「Genny」のデザイナーに就任します。
1978年、新進デザイナーとして注目されるようになった彼はヴェルサーチのプレタポルテコレクションを発表しました。会計士だった兄サントはヴェルサーチのビジネスを担当し、イタリアで初めてアパレルのフランチャイズ店を各地にオープンしました。現ヴェルサーチ(2018年10月1日より、「ヴェルサーチェ」と表記を変更)のクリエイティブ・ディレクターである妹のドナテラも、ジャンニの右腕として働き、ヴェルサーチはファミリービジネスに。
1980年代中盤までにヴェルサーチにはエルトン・ジョンや故ダイアナ妃などセレブな顧客が名を連ね、1989年にはオートクチュールに進出。そして、1991年春夏コレクションで発表した歴史に残るデザイン、ワイルド・バロックで世界的なブランドへと成長しました。クラシックなバロック様式と野生的なヒョウ柄という両極性をプリントにしたデザインは、既成の美意識を超えたワイルドなエレガンスを生み出したのです。
ファッションをエンターテイメントに
1990年前半はファッションとセレブの結びつきが始まった時代。ジャンニとその妹ドナテラはセレブ達をイタリア・コモ湖の別荘に招いて個人的な関係を築き、セレブをブランドの歩く広告塔にすることに成功しました。
ヴェルサーチのレッドカーペットで最も有名なドレスは、エリザベス・ハーレーがまとった黒の安全ピンドレス(※2)。1994年、ヒュー・グラントはラブコメ映画『フォー・ウェディング』のプレミアに着ていくタキシードを探しにヴェルサーチのスタッフと会っていました。ヴェルサーチのスーツにはヒューに合うサイズがなかったものの、同行していたヒューのガールフレンド、エリザベスは黒のドレスの両側を安全ピンで留めたセクシーなドレスをチョイス。
無名のモデルだったエリザベスのスター性を見抜いたヴェルサーチのスタッフは早速パパラッチに連絡し、そのドレスを着たエリザベスの写真を撮らせてエリザベスを一夜にしてスターにしました。
セレブがPRになると確信したジャンニは、セレブをファッションショーのフロントロウ(最前列)に招待するように。これ以降、ファッションショーに出席するセレブを撮影しようとマスコミが詰めかけ、ファッションが一躍エンターテイメントになったのです。
1990年代にスーパーモデル旋風を起こした
ファッションとセレブを融合する要因はもう一つありました。それはスーパーモデル旋風。1980年代までのモデルには、ランウェイを歩くモデルと雑誌に載るモデルの2つのタイプに分かれていました。長身でスタイルのよいモデルはランウェイに、顔が美しいモデルは雑誌や広告にと住み分けがされており、ランウェイモデルよりも雑誌モデルの方がはるかに格上だったのだとか。
1980年代後半、ドナテラはクリスティ・ターリントン、ナオミ・キャンベル、リンダ・エヴァンジェリスタの雑誌モデル3人が、モデルには珍しくマスコミに追いかけられる存在になっていることに気づきます。特にナオミはマイク・タイソンやロバート・デ・ニーロとの恋愛でメディアを賑わせていました。
ドナテラは彼女ら3人にドレスや車、旅行やパーティーなどあらゆる贅沢を与え、1991年のランウェイモデルに起用。ケイト・モス、カーラ・ブルーニ、ヘレナ・クリステンセン、クラウディア・シファー、シンディ・クロフォードも後に続き、雑誌でもランウェイでも活躍するスーパーモデル旋風が巻き起こったのです。
スーパーモデルたちの活躍はとどまるところを知らず、自身の名を冠したブランドをローンチしたりエクササイズビデオを作ったりなど、モデル業以外にも活動の幅を広げました。
ナオミは鬼才スパイク・リー監督『ガール6』(1996)にモデル役として出演した後に、『プリズナー・オブ・ラブ』(1999)でヒロインに抜擢されました。モデル業のほかにMTVの司会者としても成功していたシンディもハリウッドに進出。リチャード・ギアと1991年に結婚し1995年に離婚しましたが、同年に公開されたサスペンス映画『フェア・ゲーム』では当時の人気俳優ウィリアム・ボールドウィンとW主演をはたしました。
ジャンニとドナテラ、兄妹の確執
1994年、耳の中にできる珍しい癌を患ったジャンニは化学療法を開始し、デザインを含む多くの業務をドナテラに任せるようになりました。しかし、自分の存在をおびやかす脅威としてドナテラを見るようになり、二人の仲は不穏なものに……。
テレビ映画『ハウス・オブ・ヴェルサーチ ~モードの王国を甦らせた女~』(2013)は、ドナテラがセレブ界に人脈を築くためにパーティー三昧の日々を送るうちに、酒やドラッグに溺れながらも、自分自身を取り戻していく物語です。ジーナ・ガーションがドナテラを演じ(“あひる唇”がそっくり!)、生前のジャンニとの愛憎混ざった関係だけでなく、ジャンニの亡き後にドナテラが直面したブランドの危機も丁寧に描かれています。
1997年、癌を克服したジャンニはオートクチュールのコレクションに彼流のミニマリズム(装飾的趣向を凝らさず、必要最小限まで省略し完成度を追求する表現のスタイル)を発表。ショーの前夜にドナテラがデミ・ムーアのために開いたパーティーではジャンニの未来を予兆するような出来事が起こります。
パーティーの最中、タロットカードでドナテラを占ったデミは、カードを1枚1枚めくりながらこう言ったそう。「2人の兄弟が見えるわ。そして、“死”も……」。(※1)
ジャンニ・ヴェルサーチ暗殺事件
1997年7月15日の朝、マイアミ・ビーチの別荘の前で27歳のアンドリュー・クナナンによって、ジャンニは射殺されました。カリフォルニアで育ったアンドリューはIQが147もあり、有名な私立高校を卒業しましたが、大学は1年で中退してしまいます。
その後、リッチな年上の男性を対象に男娼をしていたアンドリューは、贅沢な暮らしを楽しんでいましたが、ドラッグや酒に溺れ、虚言癖がエスカレートしたことなどが原因で、富裕層のゲイコミュニティから脱落してしまったのだとか。(※1)
事件の朝、新聞紙を買いに別荘を出て戻ったジャンニが、家の門を鍵で開けようとしたまさにその瞬間、アンドリューはジャンニの首と顔に2発の銃弾を打ち込みました。なんと、アンドリューは既にアメリカの各地で4人の男性を殺害し、全国に指名手配されていたのです。
ジャンニの葬儀の翌日に死体で見つかったアンドリュー。ジャンニを撃った同じ銃で自殺を図ったのだとか。ジャンニ暗殺の謎は迷宮入りのままなのです……。
暗殺の謎に迫った『アメリカン・クライム・ストーリー/ヴェルサーチ暗殺』
先月発表された第70回エミー賞授賞式で作品賞を始め、監督賞(ライアン・マーフィー)、主演男優賞(ダレン・クリス)など7部門を受賞した米ドラマ『アメリカン・クライム・ストーリー/ヴェルサーチ暗殺』(BS10スターチャンネルにて11月22日(木)より毎週23時ほか放送)。
美貌と知能に恵まれたアンドリューの謎に迫り、1990年代におけるゲイへの偏見や差別を浮き彫りにした作品です。元ヴェルサーチ邸で撮影されたという豪奢なインテリアやファッション、アンドリュー役のダレン、ドナテラ役のペネロペ・クルス、アントニオ役のリッキー・マーティンら各キャストの名演技も見所です。
ヴェルサーチの凋落
ジャンニの死後はドナテラがデザインを、兄サントがCEOとして経営を引き継ぎました。2000年の第42回グラミー賞授賞式でジェニファー・ロペスがまとったドナテラのドレスは5番目に歴史に残るアイコニックなドレスと世界中から賞賛されましたが、会社を背負うプレッシャーから逃れるためにドナテラはますますコカインと酒に逃げるように。(※5)
追い討ちをかけるように、時代は派手なヴェルサーチとは正反対の、ミウッチャ・プラダに代表されるミニマリズムがもてはやされていました。次第にドナテラのコレクションは酷評されるようになり、ヴェルサーチの直営店の売り上げはグローバルで前年の1/4までに低下。会社の幹部は辞めていき、借金は膨らんでいくばかりだった2004年、酒とドラックに溺れていたドナテラはついにリハビリ施設に入所させられ、外部の敏腕実業家ファビオ・マッシーモ・カッチャトーリが暫定CEOに任命されたのです。
甦ったドナテラとヴェルサーチ
別荘を含む財産の売却、様々なコストの削減、ライセンス事業や店舗の縮小、組織の再編成などが功を奏し、翌年の2005年、新しい経営陣はヴェルサーチの借金をほぼ解消することに成功。コカイン中毒を乗り越えたドナテラは、ヴェルサーチの特徴である過剰な装飾を取り除き、より日常に寄り添ったファッションを打ち出して新たなヴェルサーチを生み出しました。その結果、2007年にはグローバルの利益は30%増となり(※6)、昨年の2017年もアジアと北米を中心に売り上げは伸び続けています。(※7)
女性にワイルドなエレガンスを見出し、モデルやスターとファッションを結びつけ、ファッションをエンターテイメントへと昇華させたジャンニ・ヴェルサーチは、自身についてこう語りました。
「ルールを破り限界を超えることがデザイナーの責任。私には、様々な場所へ訪れてカルチャーをミックスするマルコ・ポーロのようなところがあるのです」(※8)
【参考】
※1 Three Rivers Press 「House of Versace」Deborah Ball著
※2 Elizabeth Hurley on that Versace dress: 'It really wasn't that big a deal to me at the time' - Harper's Bazzar
※3 Original supermodels assemble for catwalk tribute to Gianni Versace - The Guardian
※4 未來社「時代を拓いたファッションデザイナー」堀江瑠璃子著
※5 about Versace - SPIRIT designerwear
※6 Out of tragedy - The Guardian
※7 Versace posts loss for fiscal year 2016 despite revenue growth - FASHION NETWORK
※8 Gianni Versace, 50, the Designer Who Infused Fashion With Life and Art - The New York Times
此花さくやプロフィール
「映画で美活する」映画美容ライター/MAMEW骨筋メイク(R)公認アドバイザー。洋画好きが高じて高3のときに渡米。1999年NYファッション工科大学(F.I.T)でファッションと関連業界の国際貿易とマーケティング学科を卒業。卒業後はシャネルや資生堂アメリカなどでメイク製品のマーケティングに携わる。2007年の出産を機にビジネス翻訳家・美容ライターとして活動開始。執筆実績に扶桑社「女子SPA!」「メディアジーン」「cafeglobe」、小学館「美レンジャー」、コンデナスト・ジャパン「VOGUE GIRL」など。海外セレブのファッション・メイク分析が生きがいで、映画のファッションやメイクHow Toを発信中!