話題の日本・ミャンマー合作映画が凱旋!『僕の帰る場所』から見るワッタン映画祭
ぐるっと!世界の映画祭
【第75回】(ミャンマー連邦共和国)
日本とミャンマーを舞台にした映画が劇場公開されるのは、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1985)以来、実に33年ぶり! 移民問題をテーマにした日本・ミャンマー合作映画『僕の帰る場所』が全国順次公開中だ。現地時間9月5日~10日にヤンゴンで開催された第8回ワッタン映画祭(以下、WFF)でミャンマー凱旋上映も行われ、現在、現地公開を目指しているという。2011年に軍政から民政へと政権が移管された同国の映画事情の現在は? ミャンマー在住の藤元明緒監督がリポートします。(取材・文:中山治美、写真:藤元明緒、映画『僕の帰る場所』、バンコクASEAN映画祭)
ミャンマー初の映画祭
WFFは2011年に、チェコのプラハ芸術アカデミーの映像学部や Institut Francais de Birmanie などのサポートを得て、同国のインディペンデント映画の支援とプロモーションを目的に創設された。なので、コンペティション部門は、ミャンマー出身の監督かプロデューサーによる短編映画が対象。最優秀短編映画賞、最優秀ドキュメンタリー映画賞、ニュー・ビジョン賞受賞者にはトロフィーと副賞50万ミャンマーチャット(約3万5,000円。1MMK=0.07円換算)が贈られる。第8回は57本の応募があり、11本がノミネートされた。
他、第8回は「ザ・リフレクション・オブ・ソサエティー」と題したミャンマーの4人の女性監督によるドキュメンタリー、台湾ショート、キュレーターの澤隆志プログラムによる短編集「ハー・エフェクティブ・タイム・アンド・スペース・アレンジメント」など、かなりアーティスティックな内容だ。
「観客はジャーナリストやアーティスト、映画業界の人が中心で一般の観客はほとんどいません。それはちょっと残念ではあるのですが、ミャンマーの自主映画監督にとってWFFの存在は大きいと思います。なにせコメディー映画しかなかったこの国で、政府の協力もなく映画祭を育てる苦労は計り知れません。今、ミャンマーではどんどん映画館が増え、自国の無名監督の作品がヒットを飛ばしている。そうした背景も彼らの励みになっていると思います」(藤元監督)
WFFは早くもミャンマーの若手監督の登竜門として認知されているようだ。
東京国際映画祭から始まった旅
藤元監督の『僕の帰る場所』は、父親の難民申請がなかなか認定されないことから一家離散の道をたどることになる在日ミャンマー人の物語。藤元監督の初長編作で、実に5年の歳月をかけて制作した秀作だ。東京国際映画祭(以下、TIFF)アジアの未来部門で審査委員を務めたサンセバスチャン国際映画祭ディレクター・ジェネラルのホセ=ルイス・レボルディノスは「ある家族の物語を繊細に描いており、それは世界中のさまざまな家族のメタファーとなっている。この厳しい現実を芸術的視点で捉えており、映像的にも演出的にも素晴らしい」と評し、作品賞を与えた。
「WFF のプログラマーがTIFFで鑑賞し、特別上映作品に決めてくれたようです」(藤元監督)
映画祭の上映会場はおよそ100年の歴史を持つワジヤ・シネマと、ドイツの語学学校ゲーテ・インスティトゥート・ミャンマーの2か所。『僕の帰る場所』の上映は2回行われ、いずれも400席を持つワジヤ・シネマで行われた。500ミャンマーチャット(約35円)のチケットは完売で、 WFF始まって以来の長蛇の列ができたという。藤元監督は、本職は建築現場の監督だという父親役のアイセ、都内でミャンマー雑貨店の店主をしている母親役のケイン・ミャッ・トゥと、ケインの実子でもあるカウン&テッ兄弟らと共に舞台挨拶に立った。Q&Aではドキュメンタリーかと見まがうような、俳優陣の自然な演技を引き出した演出法や、映画に出演することになった俳優陣への感想などが飛んだという。
「どうやら通訳が用意されておらず、直前に急遽手配することになるなどミャンマーっぷりが発動されましたが、企画がスタートしてから5年経ち、現地の人に観てもらうという夢の一つがかないました」(藤元監督)
上映後、俳優陣はハリウッドスターばりに写真撮影を求める人たちに囲まれたという。
映画祭と検閲問題
ミャンマー(旧ビルマ)はイギリスから独立した直後の1950年~1960年代は映画産業が盛んだったという。しかし1988年の軍事独裁政権以降は映画への検閲が厳しくなり、映画はコメディーが中心だったという。しかし2011年に民政へと移管されるや、韓国のCJグループも参入してのシネコンが続々オープン。また学生運動を恐れて一時、閉鎖されていた大学も再開し、映像制作を学ぶ学生も増えているようだ。
ただ映画の検閲はいまだに存在している。ミャンマーでも撮影した『僕の帰る場所』では、情報省による脚本チェックに加え、その脚本通りに撮影が行われているか現場チェックもあったという。
「現地でのメインスタッフは日本人でしたが、現地コーディネーションに地元のスタッフを起用し、脚本検閲の許可を得る作業をしてもらいました。日本人クルーだけでは、その交渉は難しかったと思います。ただ撮影は、子どもの心情に合わせての進行だったので脚本通りには進まない。するとチェックに来ていた当局の方から『なぜ脚本通りに撮らないんだ?』と指導が入りました。そこを渡邉一孝プロデューサーが撮影法を説明しつつ説得して、なんとか理解してもらいましたが、映像チェックもその場で行われました。もしかしたら撮影中の検閲は、僕の作品の場合、外国資本の映画だったから……の可能性もありますが」(藤元監督)
一般の観客を対象とした WFFの上映作品も検閲が必須だ。そこで昨年、珍事が起きた。コンペティション部門で上映される予定だったニンパパソー監督『ア・シンプル・ラブ・ストーリー(英題) / A Simple Love Story』は同性愛がテーマ。そこで検閲で一部変更を求められたものの監督がこれを拒否。ゆえに映画祭で上映されなかったのだが、審査員が最優秀ドキュメンタリー映画賞に選んだのだ。審査対象から外さなかった映画祭の判断もさることながら、この判断は審査員のささやかな抵抗とも言われている。
「アウンサンスーチーさんが国家最高顧問になってから検閲はだいぶ緩くなり、表現の自由が認められるようになってきたとはいえ政権批判はもちろん、民族紛争や宗教対立をテーマにした作品は厳しいでしょう」(藤元監督)
ミャンマー情報省では今春、現行の映像関連の法律の改正を検討すべく、新たな委員会を設けたことを発表している。
『僕の帰る場所』の旅はまだ続く
昨年のTIFFでのワールドプレミア後、『僕の帰る場所』は世界各国の映画祭を巡回中。なかでもオランダ・アムステルダムで行われた第11回シネマジア映画祭で子役のカウン・ミャッ・トゥが最優秀俳優賞、第5回バンコクASEAN映画祭2018では審査員賞を受賞した。
「海外映画祭に関しては完成の段階で、自分で目標とする映画祭をピックアップし、それを英語が堪能な 渡邉プロデューサーに渡して申請手続きをしてもらいました。TIFFでの受賞後、問い合わせもたくさんいただき、それで実際に出品がかなった映画祭もあるのですが、同等の数だけ落とされました。また韓国の全州国際映画祭のように、公益財団法人川喜多記念映画文化財団に作品を預けたことがきっかけで参加が決まった映画祭もあります。ただマーケットが併設されていない映画祭しか参加出来ていないので、バイヤーに観てもらえず、海外セールスにつなげるまでに至っていません。海外へ行く前に現地の配給会社に連絡をするなど働きかけもしたのですが、全然手応えがないんです。やはり無名の監督という壁を感じました。そこでまずは数多くの映画祭に参加して、名前を知ってもらうことから始めようと、途中から方向性を切り替えました」(藤元監督)
今の目標はミャンマーでの劇場公開。もし実現すれば、日本・ミャンマー合作映画としては史上初になるという。
「ただミャンマーでは外国映画の年間上映本数が決まっており、現状ではハリウッド作品と同じ外国映画に分類されて競争率が高いのでどうすべきか対策を考えています」(藤元監督)
そしてミャンマーの女性と結婚して現地在住となった藤元監督は、再び日本とミャンマーをつなぐ新作を準備中。今度はミャンマー人の視点で、日本の戦争を見つめる内容になるという。
「年末に日本のスタッフとともにミャンマーの地方に視察に行きます」(藤元監督)
ちなみにその視察旅行は、TIFFの国際交流基金アジアセンター特別賞の副賞で授与されたアジア旅行を活用するそうだ。たくましく映画祭を活用し、藤元監督は新たな道を歩み始めている。