英国モードの牽引者、ヴィヴィアン・ウエストウッド
映画に見る憧れのブランド
「パンクの女王」「現代のココ・シャネル」と称されるヴィヴィアン・ウエストウッド。恋人のマルコム・マクラーレンと一緒にセックス・ピストルズをプロデュースし、パンク・ムーブメントの発信者だったことは有名ですが、パンク終焉後も、英国モードの牽引者として40年以上も活躍し、2006年にはエリザベス女王よりデイムの称号を授与されました。現在では環境・動物・人権保護活動家としても多忙な彼女。今回は、ヴィヴィアン・ウエストウッドの軌跡を辿ってみましょう。
■労働者階級の女の子がロックンロールに触れる
第二次世界大戦の真っ最中、1941年にイングランド中部のダービシャーで生まれたヴィヴィアン。現在77歳の彼女は労働者階級の出身で、教育とモノづくりを重んじる両親に愛されて育ちました。絵が上手だったヴィヴィアンは1957年、16歳のときにロンドンのハロー美術学校へ進学。ここでヴィヴィアンは若者文化の台頭を体験します。
大戦後のイギリス経済は緊縮状態にあり、新時代の到来を感じさせたロックンロールがアメリカから輸入されイギリスでも大流行。エルヴィス・プレスリーや1955年に公開されたリチャード・ブルックス監督作『暴力教室』がロックンロールを若者に浸透させました。映画は、アメリカの下町にある高校に赴任してきた理想に燃える教師リチャード・ダディエ(グレン・フォード)が、暴力的な生徒たちを変えようと格闘するストーリーですが、本作が画期的だと捉えられている理由は、主題歌の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と、人種差別やマッカーシズムなど1950年代のアメリカ社会の暗部が“若者の怒り”として映し出されている点。ヴィヴィアンも当時の若者の例にもれず、ロックンロールやダンスに明け暮れたそう。
■結婚、そして、シングルマザーに
1959年、18歳になり教師養成学校に通い始めた頃、ヴィヴィアンがダンスフロアで出会ったのがデレク・ウエストウッド。若い二人は恋に落ち、1962年に結婚します。ところが、長男を出産したわずか数か月後に別居。幼い子供を抱えて離婚するなど、この時代ではあり得ない決断でした。例えどんなに社会から非難されようとも、生活が苦しくなろうとも、彼女は専業主婦になるよりも、自由に知的、政治的、文化的探求を高めたかったのです。
事実、ヴィヴィアンの世代は、アート、ファッション、音楽、個人のアイデンティティーを一つに融合させた初めての世代。彼らの多くは労働者階級出身で、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、マリー・クヮントのミニスカート、経口避妊薬がブームとなり、スウィンギング・ロンドンというカウンターカルチャーが吹き荒れていました。
2019年1月5日に公開されるドキュメンタリー『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ!』にマイケル・ケインが進行役として登場しますが、彼も労働者階級出身。上流階級出身のスパイ、ジェームズ・ボンドのアンチテーゼとして作られた『国際諜報局』(1964)で主役を務め人気を博しました。マイケルが演じたハリー・パーマーは労働者階級の訛りで話し、スパイらしからぬ黒縁メガネをかけて自炊するなど、庶民的なスパイ。労働者階級のハリーはまさに体制に対抗する若者文化を象徴しており、後年『オースティン・パワーズ』シリーズのマイク・マイヤーズが演じたオースティンや『キングスマン』シリーズのコリン・ファースが演じたハリー・ハートのモチーフにもなったほどの影響を与えたのです。
■マルコム・マクラーレンとの出会い
「マルコムのおかげで、わたしは社会のこと、政治のこと、文化のことに目を向けられるようになった」と回想するヴィヴィアン(※1)。スウィンギング・ロンドンが花開いている頃、ヴィヴィアンはマルコム・マクラーレンに出会います。このとき彼は21歳の美術学校の学生でヴィヴィアンは25歳のアクセサリーを作るシングルマザー。直観力が強く、頭脳明晰でクリエイティブな上にユーモアに長けた彼は、強烈なカリスマの持ち主でした。マルコムとヴィヴィアンは惹かれあい、彼女は二人目の子供を妊娠します。
ですが、自由気ままに生きるマルコムから経済的支援を期待できなかったヴィヴィアンは小学校の教師として働くことに。毎日、家賃や赤ちゃんのミルク代について頭を悩ませる彼女の傍らでマルコムは政治的なアーティストとして有名になっていきました。
■レット・イット・ロック開店
そのうちに二人は毎週末に子供を実家に預けて、キングス・ロードの新しいブティックを見て回るようになり、髪を脱色しショートカットにしたヴィヴィアンとマルコムのカップルはロンドンで一際目立つ存在に。1970年代前半のデヴィッド・ボウイもヴィヴィアンのヘアスタイルを真似していたという噂です。
育児と教師の仕事で多忙を極めていたヴィヴィアンですが、1971年、30歳のとき、マルコムと一緒にキングス・ロード430番地に初めての店レット・イット・ロックを開きます。現代アートに造詣が深いマルコムの発想力とヴィヴィアンの服を作る技術が結びつき、Tシャツやジーンズにわざと穴を開けて裾をギザギザにしたり、政治的なスローガンやスタッズをつけたりと、新しいファッションが生み出されました。
以降、二人の店は様々な名前に変化しながら、ロンドンにおけるランドマークへと進化していき、キース・リチャーズ、フレディ・マーキュリー、ツイッギーやエルトン・ジョンなどそうそうたる顔ぶれが店に集まるようになったのです。
■セックス・ピストルズの結成
1973年、マンハッタンで毎年行われるファッションの見本市に招待されたヴィヴィアンとマルコムはニューヨークに渡りました。二人はそこで、ジェンダーを超えたファッションや反体制的な思想、不協和音の音楽と叫び声が乱暴に鳴り響くニューヨーク・ドールズのステージに感銘を受けたのだとか。
これをきっかけに、マルコムはバンドをプロデュースすることを決意。シド・ヴィシャスが加入する前のベーシストだったグレン・マトロリックが作曲を手がけ、ボーカルのジョニー・ロットンが歌詞を書き、ヴィヴィアンやマルコムがそこに手を加え、ヴィヴィアンがファッションを作り、セックス・ピストルズが誕生しました。
その頃のヴィヴィアンとマルコムはカップルとしては上手く行っていませんでしたが、ピストルズのプロデュースにかけては息がぴったりあっていたのだとか。ピストルズは爆発的な人気となり、パンク・ムーブメントに火をつけました。1975年の終わりから1977年にかけてパンクが一世風靡した理由は、当時のイギリスにおける都会の貧困層や若年層の怒りを代弁していたからだと考えられています。つまり、1960年代のスウィンギング・ロンドンで若者が抱いた新時代への夢が、1970年代の経済危機や変わらない体制により、無残に打ち砕かれていたのです。
■パンク・ムーブメントの終焉
ドキュメンタリー『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』(公開中)の中で「パンク・ムーブメントは失敗だった」「わたしたちは体制を攻撃どころかうっぷんをさらしていただけ」と語るヴィヴィアン。同作のローナ・タッカー監督は筆者とのインタビューで、「パンク・ムーブメントは結局、体制を変えることができず、単なる“流行”になってしまったのです」と解説しました。
ピストルズのベーシストだったシド(ゲイリー・オールドマン)と恋人のナンシー(クロエ・ウェッブ)の悲劇を描いた『シド・アンド・ナンシー』(1986)に見る二人の短い過激な恋は、まさにパンク・ムーブメントの終焉を描いているよう。
また、ピストルズを知るドキュメンタリー映画として、マルコム視点で語られた『セックス・ピストルズ/グレート・ロックンロール・スウィンドル』(1979)とそれに抗議するためジョニーら旧メンバーが協力した『ノー・フューチャー・ア・セックス・ピストルズ・フィルム(原題) / NO FUTURE A SEX PISTOLS FILM』(2000年)を見比べるのもおもしろいでしょう。
■パンクから英国が誇るデザイナーへ
「セックス・ピストルズとパンク・ロックにかかりきりの頃は、自分をデザイナーだと思ったことはなかったわ」というヴィヴィアン(※1)。1978年から1979年にかけてセックス・ピストルズが解散しシドが亡くなった後、1981年にヴィヴィアンとマルコムは決別しました。この頃、マーガレット・サッチャーが率いる保守党の圧勝や故ダイアナ妃の王室入りの話題で、イギリス社会は昔の保守主義や王政をロマンティックに回顧するムードが流れていました。
この雰囲気を敏感に感じたヴィヴィアンは、1981年秋冬にパイレーツ・コレクションを発表。これは17世紀の銃士から着想を得たものでした。これ以来、彼女にはファッションデザイナーという意識が芽生え、自国の伝統文化に向き合うように。
その結果、現在のコレクションに至るまでコルセット、クリノリン(19世紀中盤に流行したドレスを膨らませるために入れた針金などで作った枠組み)、ハリス・ツイード、タータンチェックなどの歴史的衣装をモチーフにしたスタイルは、ヴィヴィアンの定番になっています。ただし、過去のスタイルに暴力性とセクシーさという革命を添えて独自の世界観を作り出し、政治的なメッセージを世界へ発信するのがヴィヴィアン流。
また、これら昔からの技術や産業を継続して使用することで、伝統文化や職人の雇用を守る側面もあるのです。そんなヴィヴィアンの想いはブランドロゴである王冠を被ったような天体に象徴されているのだとか。王冠は伝統を天体は未来を指し、「未来に伝統をもたらせたい」(※2)という意味があるそう。
■パンクはファッションじゃない、より良い世界を求め続けること
2010年頃から、環境・動物・人権保護活動家としても積極的に動くヴィヴィアン。ファッション・コングロマリットの傘下には入らず、これ以上店舗を広げる意思はないと発表(※3)しています。
毎朝早起きをし読書を済ませてから、15分間自転車を漕いでオフィスへ向かうのが日課の彼女が、出社してまず対応するのは活動家として仕事なのだとか。25年前に結婚した25歳年下のデザイナー、アンドレアス・クロンターラーがデザインの仕事を分担するおかげで、活動家としての時間を費やせるようになりました。
しかし、ファッション産業は地球を最も汚す産業のひとつ。この矛盾について彼女はどう感じているのか……?
「今のわたしは二つの役割を担っている。ファッション・デザイナーと活動家。その両方が互いを支えあっている」「とにかく今いる場所から始めなければ。その他にわたしにできることがあるとすれば、人々に発信することね」とヴィヴィアン(※1)。
パンク・ムーブメントが起こったとき、ヴィヴィアンのお店には様々な問題や身体的な障害を抱えた若者が大勢押し寄せていたそうです。ヴィヴィアンはそんな彼らを受け入れ、彼らもみんなと同じ普通の人間だという気持ちにさせたのだとか。
人は完璧でなくてもよい、矛盾や罪悪感のなかでも今できることをやる。パンクはファッションじゃない、より良い世界を求め続けること。パンクの精神はヴィヴィアン・ウエストウッドに今も生き続けているのです。
【参考】
※1…DU BOOKS『ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝』ヴィヴィアン・ウエストウッド、イアン・ケリー著
※2…Tヴィヴィアン・ウエストウッド公式サイト…blog『The Orb(オーブの由来)』
※3…Vivienne Westwood: climate change, not fashion, is now my priority - The Gurdian
此花さくやプロフィール
映画ライター。ファッション工科大学(FIT)を卒業後、「シャネル」「資生堂アメリカ」のマーケティング部勤務を経てライターに。アメリカ在住経験や映画に登場するファッションから作品を読み解くのが好き。
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