東京をゴッサム・シティに見立てた新バットマンはなぜ幻に?
幻に終わった傑作映画たち
幻に終わった傑作映画たち 連載第9回
ダーレン・アロノフスキーの『バットマン:イヤー・ワン』
多くの巨匠や名匠たちが映画化を試みながら、何らかの理由で実現しなかった幻の名画たち。その舞台裏を明かす連載「幻に終わった傑作映画たち」の第9回は、ダーレン・アロノフスキーの『バットマン:イヤー・ワン』。行き場を失ったスーパーヒーロー“バットマン”に新たな活力を吹き込もうとしたワーナー・ブラザース。だが、白羽の矢がたったアロノフスキーとマーク・ミラーによる、人々が親しみ愛着のある“バットマン”とはほど遠いビジョンは、スタジオの方向性とは正反対のものだった。
BATMAN: YEAR ONE
監督:ダーレン・アロノフスキー
想定公開年:2000年
製作国:アメリカ
ジャンル:スーパーヒーロー・ドラマ
スタジオ:ワーナー・ブラザース
クリント・イーストウッド主演で、東京をゴッサム・シティに見立てて撮影
『バットマン』はこれまで実写とアニメーションの両方で、何度も映像化されている。そのため、1990年代にもなると、もう“コウモリ男”の向かう先などどこにもないと、誰もが感じていた。それは、映画化権を持つワーナー・ブラザースも同じだった。バットマン神話のメッキをはがしたティム・バートン、そしてジョエル・シューマカー版がダメ押しとなった。そこへ現れたのが、ダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキーは当時、まだ数本の短編映画と1本の長編『π』(1997)を発表したに過ぎなかった。
1969年生まれの監督・プロデューサー・脚本家のアロノフスキーは、ハーバード大学で映画理論を修めた後、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)で実写とアニメーションを専攻する。この経歴と、不穏なテーマを好む偏向ぶりが、行き場を失ったスーパーヒーローに新しい活力を吹きこむには、もってこいだった。
バットマンに抱くイメージのすべてを捨てろ!すべてだ!
「バットマン」のグラフィックノベルの傑作群のなかでも、1987年にDCコミックスから出版された「バットマン:イヤー・ワン」は、異色の作品だ。1986年の「バットマン:ダークナイト・リターンズ」で偶像破壊をやってのけたフランク・ミラーがストーリーを書き、『デアデビル』で注目されたデヴィッド・マツケリーがアートを担当。ブルース・ウェインと、警部補ジム・ゴードンの始まりと出会い、複雑になっていく関係を描いていく。
ワーナー・ブラザースにとって「イヤー・ワン」は、レジェンドを原点に戻すには格好の素材といえた。だがアロノフスキーとスタジオの最初の打ち合わせは、うまくいかなかった。
「バットマンをクリント・イーストウッドに演じさせ、撮影は東京で敢行して、ゴッサム・シティに仕立てるつもりだと言ったんだ。スタジオの気を引いたのは間違いないよ」
デヴィッド・ヒューズ著の「Tales from Development Hell」(未邦訳)で、アロノフスキーはそう振り返っている。
これが冗談かどうかはともかく、アロノフスキーはワーナー・ブラザースから仕事を得る。すでに、ミラーは自身の原作を映画用の準備稿に書き起こしていた。さらにアロノフスキーとの共同作業で脚本に整えていった。英エンパイア誌に、アロノフスキーはこう語っている。
「どんなグラフィックノベルとも、どんな映像化作品ともまったく違う。バットマンに抱くイメージのすべてを捨てろ! すべてだ! 僕らは完璧に一新したんだよ」
脚本の中心的なトーンは『ダーティー・ハリー』や『狼よさらば』
アロノフスキー&ミラーのバージョンでは、ブルース・ウェインは億万長者のプレイボーイではない。両親が殺されるのを目撃したのち、ゴッサムのストリートをうろつく浮浪児だ。機械工のリトル・アルが身柄を引き受け、車の知識を教える一方、ブルースは自分の人生が街の闇に浸食されていくと感じている。それにあらがうように、成長すると猟奇的なヴィジランテ(自警団員)としてトラブルを求め、漆黒のリンカーン・タウンカー(これがバットモービルになる)で、ゴッサムをドライブして回る。
コウモリとのつながりは、ブルースが父の印章を施した指輪で犯罪者の顔を殴ったときに生まれる。相手の額に残したイニシャルのT・W(トーマス・ウェイン)が、コウモリを連想させた。ケープをまとい、ホッケーマスクを被ることで、ブルースの自警行為とバットマンへの変身が加速する。ミラーの原作に登場したキャットウーマンとジョーカーにも出番がある。だが脚本の中心的なトーンは、昔ながらの「ケープをまとった十字軍騎士」というよりも『ダーティハリー』(1971)や『狼よさらば』(1974)、『タクシードライバー』(1976)を負っている。
変態に走ったアイアンマン?クリエイターとスタジオの方向性は正反対
脚本上では、人々が親しみ愛着のあるバットマンとはほど遠い描写だったが、スタジオが用意したキャラクターとバットモービルのコンセプトアートは、伝統的なデザインとなっていた。膨大な量のアートワークがプロジェクトの進捗具合を証明しているが、その大半は、みすぼらしく世慣れた少年というアロノフスキー&ミラーのビジョンとは、接点がみられない。未来的な世界観を明確に打ち出しながら、バットマンは中世の騎士のように見える。
これらのデザインと相まって、なじみのある流線形の外見に回帰しているのが、バットマンのコスチュームだ。光り輝く装甲と、つるつるしたゴムのマント——これでは“変態のアイアンマン”だ。中世風のルックスはキャットウーマンにも採用されている。バットモービルにいたっては、とげとげした付属物と推進装置にびっしり覆われて、ほとんど車体が見えない。アロノフスキー&ミラーによる脚本で描かれていた、“パワーアップしたリムジン”のイメージは、どこかにいってしまっている。
ワーナーが用意したデザインは、かつて見たどれとも一線を画していたが、アロノフスキー&ミラーのコンビの方向性とは正反対だった。こうした“ズレ”が、双方袂を分かち、事実上『イヤー・ワン』実写化の息の根を止めた要因となった。一方で、こういう説もある。アロノフスキー&ミラーのビジョンが、あまりにも商業的ではなかったため、ヒットの可能性が薄いとスタジオが判断したというものだ。寒々としたストーリーラインに、魅力に欠ける車両やガジェットときては、大事なターゲットである若者層を引きつけることは難しい。
アロノフスキーが「地下組織のゲリラっぽさが漂う、肝の据わった都市犯罪ドラマ」と表現する脚本を読み、「batman-on-film.com」の創設者ジェット(Bill "Jett" Ramey)はこう評価した。
「やばい映画になっただろう。ただし、バットマン映画を名乗るべきではない」
さらに、グラフィックノベルの「イヤー・ワン」とは別物だとジェットは指摘する。脚本では、バットマンは腐敗した警察本部長のジリアン・B・ローブと対決し、最終的には殺す。
「僕が失敗だと思う一番の理由は、このブルース・ウェインには肩入れ出来ないところだ……。ブルースのボイスオーバーによる“亡き父への手紙”はとりわけ安っぽく、彼の「使命」を果たすための暴力は、すべて自己満足によるものだ。ゴッサムを救うためにスーツをまとうのではなく、みじめな犯罪者たちに目にもの見せて、スカッとするために着ている。そんな者がヒーローと言えるだろうか?」
“バットマン”の映画は、一種のおとり作戦だった!?
スタジオも、ジェットが指摘したような点は理解していた。ジョエル・シューマカーの『バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲』(1997)の大失敗の後、このシリーズを救うには大胆な巻き直しが必要だという認識はあったものの、そこまで抜本的な修正をする覚悟はできていなかった。ワーナーのみならず、アロノフスキー自身も、彼とミラーのバージョンが商業的な成功はもとより、本当に映画化されるのか疑ってかかっていた、と発言している。製作中止になってから10年ほど後に、エジンバラ国際映画祭の会場で、彼はこう告白している。
「“バットマン”の映画を作りたいと、心から思ったことはなかったんだ。あれは一種のおとり作戦だった。『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000)に取り組んでいたときにワーナー・ブラザースから電話が来て、“バットマン”について話したいと言われた。当時『ファウンテン 永遠につづく愛』(2006)という映画のアイデアを温めていたのだが、それが大作になるのはわかっていた。そこでこう思った。『もしこのバットマン映画の脚本を書けば、彼らは僕を、監督・脚本家として認めてくれるんじゃないかって。そうすればワーナーは愛と死に関する映画用に、僕に8,000万ドルを出してくれるかも……』ってね」
その後、何が起こったか? フランク・ミラーのコミックは、ブルース・ウェインと彼がヒーローになる顛末を語っている。つまり、クリストファー・ノーランの『バットマン ビギンズ』(2005)でわれわれが目にするストーリーだ。そして、ノーランの『ダークナイト ライジング』(2012)が証明したように、ケープをまとった十字軍騎士には、過去を再訪せずとも、たくさんの行き場所があることを証明した。
Original Text by ロビン・アスキュー/翻訳協力:有澤真庭 構成:今祥枝
「The Greatest Movies You'll Never See: Unseen Masterpieces by the World's Greatest Directors」より
次回は1月24日更新:「主演はブラピ、東京大空襲の莫大な撮影費用で捻出できず」コーエン兄弟の『白い海へ』です。
連載・幻に終わった映画たち 今後のラインナップは以下の通りで全15回です。
連載第11回 デヴィッド・リンチの『ロニー・ロケット』
連載第12回 セルジオ・レオーネの『レニングラード』
連載第13回 フランシス・フォード・コッポラの『メガロポリス』
連載第14回 デヴィッド・フィンチャーの『ブラック・ホール』
連載第15回 ティム・バートンの『スーパーマン・リヴス』
また、本連載は2018年12月1日に書籍にて発売となった“誰も観ることが出来ない幻映画50本を収めた”「幻に終わった傑作映画たち」(竹書房)の一部を再構成したものです。(B5変形判・並製・264頁・オールカラー 定価:本体3,000円+税)
書籍「幻に終わった傑作映画たち 映画史を変えたかもしれない作品は、何故完成しなかったのか?」の概要は以下の通りです。
偉大なる監督たちの“作られなかった傑作映画”たち……なぜそれらはスクリーンに辿り着くことができかなかったのか——巨匠たちの胸に迫る逸話の数々を、脚本の抜粋、ストーリーボード、セットでのスチルや残されたフッテージたちを添えて描き出す。さらに各作品には、定評あるデザイナーたちによって本書のために作られたオリジナル・ポスターも掲載。収録図版数400点以上。
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【本書に掲載されている幻映画の一覧】
チャールズ・チャップリン監督『セントヘレナからの帰還』
サルヴァドール・ダリ&マルクス兄弟『馬の背中に乗るキリンサラダ』
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督『メキシコ万歳』
エドガー・ライス・バローズ原作『火星のプリンセス THE ANIMATION』
名作『カサブランカ』続編『ブラザヴィル』
カール・テオドア・ドライヤー監督『イエス』
H・Gウェルズ×レイ・ハリーハウゼン『宇宙戦争』
アルフレッド・ヒッチコック監督×オードリー・ヘプバーン『判事に保釈なし』
ジョージ・キューカー監督×マリリン・モンロー『女房は生きていた』
ロベール・ブレッソン監督『創世記』
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督『地獄』
フェデリコ・フェリーニ監督『G・マストルナの旅』
アルフレッド・ヒッチコック監督『カレイドスコープ』
スタンリー・キューブリック監督『ナポレオン』
オーソン・ウェルズ監督『ドン・キホーテ』
宮崎駿監督『長くつ下のピッピ』
ジェリー・ルイス監督・主演『道化師が泣いた日』
オーソン・ウェルズ監督×ジョン・ヒューストン主演『風の向こうへ』
マイケル・パウエル監督×シェークスピア原作『テンペスト』
アレクサンドル・ホドロフスキー監督×フランク・ハーバート原作『デューン/砂の惑星』
ショーン・コネリー主演、もうひとつの007『ウォーヘッド』
フィリップ・カウフマン監督、幻の映画版第1作『スタートレック プラネット・オブ・タイタンズ
セックス・ピストルズ主演×ラス・メイヤー監督『誰がバンビを殺したか?』
スティーヴン・スピルバーグ監督『ナイト・スカイズ』
ピーター・セラーズ主演『ピンク・パンサーの恋』
サム・ペキンパー監督『テキサス男』
ルイ・マル監督×ジョン・ベルーシ主演『マイアミの月』
リンゼイ・ナダーソン監督×チェーホフ原作『桜の園』
オーソン・ウェルズ監督『ゆりかごは揺れる』
フランシス・フォード・コッポラ監督『メガロポリス』
D・M・トマス原作『ホワイト・ホテル』
セルジオ・レオーネ監督『レニングラードの900日』
デヴィッド・リンチ監督『ロニー・ロケット』
デヴィッド・リーン監督『ノストローモ』
テリー・ギリアム監督『不完全な探偵』
スタンリー・キューブリック『アーリアン・ペーパー』
アーノルド・シュワルツェネッガー主演×ポール・ヴァーホーヴェン監督『十字軍』
リドリー・スコット監督『ホット・ゾーン』
ケヴィン・スミス脚本『スーパーマン・リヴス』
ダーレン・アロノフスキー監督『バットマン:イヤー・ワン』
第二次世界大戦の悲劇『キャプテン・アンド・ザ・シャーク』
コーエン兄弟『白の海へ』
ニール・ブロムカンプ監督『HALO』
ウォン・カーウァイ監督×ニコール・キッドマン主演『上海から来た女』
マイケル・マン監督『炎の門』
リドリー・スコット×ラッセル・クロウ主演『グラディエーター2』
ジェームズ・エルロイ原作×ジョー・カーナハン監督×ジョージ・クルーニー主演『ホワイト・ジャズ』
デヴィッド・フィンチャー監督『ブラックホール』
スティーヴン・スピルバーグ監督×アーロン・ソーキン脚本『シカゴ・セブン裁判』
ジョニー・デップ主演・製作総指揮『シャンタラム』
デヴィッド・O・ラッセル監督『ネイルド』
ジェリー・ブラッカイマー製作『ジェミニマン』
チャーリー・カウフマン監督・脚本『フランク・オア・フランシス』
トニー・スコット監督『ポツダム広場』