映画に見る外国人労働者と移民~日本はどう対応すべきか?~
昨年12月に参議院本会議で可決、成立した「改正出入国管理法」。今年4月には施行となる。国会で紛糾した最大のポイントは、この改正が「移民の受け入れなのでは?」という疑念に対して、明確な回答がないままに採決された点だろう。この改正が外国人労働者受け入れのハードルを一気に低くしたのは確かで、なおかつ在留資格の更新によっては事実上の永住が認められることになる(特定技能2号という資格)。また、特定技能1号の方は在留期間に5年という制限が設けられているが、必要とされる「技能」の中身がはっきりしていないため、「政府への白紙委任」と批判されても仕方ないだろう。この法案、人手不足の解消が大きな目的ではある。しかし、今後5年間で最大34万人の外国人労働者の受け入れを想定しているというのだが……日本は、そして日本人は、どう対応していくのか。(山村基毅)
外国人が「働く」ということ
「移民」政策でアメリカは日本の先輩格である。当然、いざこざも数多く経験している。29年前の作品『グリーン・カード』(1990・ピーター・ウィアー監督)は、ラブストーリーの衣をまとってはいるが、アメリカにおける永住権(グリーンカード)がテーマとなっている。
フランスから来たジョージ(ジェラール・ドパルデュー)は長期滞在のために永住権を取ろうとしていた(ジョージはウエイターとして働いているが……)。そのためにはアメリカ人の女性と結婚することが(もちろん、偽装結婚)、最も簡単な方法である。
結婚を持ちかけられたのが、女性園芸家のブロンティー(アンディ・マクダウェル)。ブロンティーは、温室のある部屋に住みたかったが、単身者では入居できなかったのだ。彼女にとっても偽装結婚は意味のあることだった。仲立ちする者がいて、初対面の二人は偽装結婚をすることに。しかし、ただ結婚証明書を得て、入国管理局で面接するだけでは終わらず、「結婚」そのものの実態調査も行われるのだった……。
入国管理局の調査員が部屋を訪問し、結婚に至るまで、そして結婚して以降の仕事や生活ぶりを事細かに質問する。その二人の話の食い違いや、そのことを取り繕っていくさまがコメディー調で描かれていく。
アメリカとフランスとの国柄の違いはそれほどクローズアップされないが、それでも外国人が他国で仕事をするには相応の苦労を伴うことがわかる。
恋愛という「関係」でなくとも、違う国で生まれ育った者が相互に理解し合うことは、なかなかに難しい。「働く」ということにおいてもそれは同様で、日本でも、さまざまなヘイトスピーチが横行するように、まず自分たちと外国人との「差異」が目につき、次に苛立ちや焦り、時に妬みや嫉みといった負の感情に支配されたりすることもある。
結婚がその国で暮らすための「手段」となる
この『グリーン・カード』の日本版ともいえるのが、『ラブ・レター』(1998・森崎東監督)だ。ただ、こちらの「偽装結婚」は完全にペーパーマリッジである。
裏ビデオ店の店長を任されているチンピラ、吾郎(中井貴一)は、社長(根津甚八)から中国人女性・白蘭との偽装結婚を持ちかけられる。彼女は風俗店で働き、国に金を送金しようとしており、そのためには長期間の滞在が必要だったのだ。
吾郎は80万円という謝礼に惹かれ、偽装結婚を引き受ける。白蘭と会ったのは、入国審査の際の一度だけ。審査は難なくクリアし、それ以降、吾郎は白蘭のことなど忘れてしまっていた。ところが、ある日、地方で働いていた白蘭が病死したという知らせが入る。形だけであるが「夫」の自分が遺体を引き取りに行かねばならない。
海辺の町に赴き、遺体を荼毘(だび)に付して遺骨として持ち帰ろうとする。 荷物を取りに、寮とは名ばかりのタコ部屋のような部屋に寄った時、白蘭がつたない日本語でつづった、吾郎に宛てた手紙が見つかる。故郷のこと、毎日の暮らしのことなどが書かれている。それは一度しか会ったことのない吾郎へのラブ・レターでもあった……。
原作が浅田次郎だけに、ストーリー展開はあざといものの、ついつい泣かされてしまう。そして、中国から働きに来た女性が風俗店で働くしかないというあたりが、時代を象徴しているだろう。1980年代から「ジャパゆきさん」という言葉が流行し、とくに東南アジアから働きに来る女性たちをそう称していた。
性風俗に限らない。私も、かつて山形県の寒村に集団でフィリピンから嫁いできた女性たちの話を聞いて回ったことがある。彼女らは、もちろん自国での生活苦があり、村の側は嫁不足のため中高年の独身男性が増えているという問題を抱えていた。
そうした結婚の動機はどうであれ、子どもも生まれ、舅(しゅうと)や姑とも仲良くなり、幸せな家庭を築いている者も多かった。笑顔の写真を何枚も撮らせてもらったのを覚えている。
しかし、数年後、数人の花嫁たちがこの村から逃げ出したという話を聞いた。生活習慣や風習に、どうしても埋められない溝のようなものがあったのだという。そのことに、役所の職員などはまったく気づかなかったそうである。
異文化との出会いの中で
日本映画『月はどっちに出ている』(1993・崔洋一監督)は、スナックで働くフィリピン女性(ルビー・モレノ)とタクシー運転手(岸谷五朗)との恋愛ドラマであるが、このタクシー運転手が在日コリアン(二世)であることから話は複雑化してくる。
共に「外国人」ではあるが、背負っているものが大きく異なっている。片や、フィリピンに家族がいて、仕送りをしなくてはならない女性。片や、かつて親の世代が日本に渡り、それなりの地歩を築き(母親がスナックを経営している)、それなりの暮らしを営んでいる男性。
この二人の間に、たとえばタクシー会社の従業員のような「日本人」を入れることで、外国人労働者の立場がより鮮明になってくる。つまり、彼女らが風俗店や単純労働の現場で仕事をしなくてはならないことは事実なのだが、そこには同じような境遇の日本人たちも大勢いるということだ。
似たような暮らしをしているものの、文化そのものはまったく違っている。同じ職場であっても、思いがうまく伝わらないもどかしさがあるのだ。
イギリス映画『やさしくキスをして』(2004・ケン・ローチ監督)でも、イスラム系移民の男性とアイルランド人の女性との恋愛が描かれる。
ロシーン(エヴァ・バーシッスル)はスコットランドのグラスゴーにある高校の音楽教師。その高校は厳格なカトリック系の学校で、地域の教会の司祭が人事権を持っている。
この女性教師が、女子生徒タハラ(シャバナ・バクーシ)の兄カシム(アッタ・ヤクブ)と出会う。カシム兄妹はパキスタンからの移民二世で、こちらもまた敬虔(けいけん)なイスラム教徒。そして、カシムには同胞の許婚(いいなずけ)がいる。
ロシーンとカシムは恋に落ち、共にスペイン旅行に出かけたりもするのだが、互いの宗教的立場から交際を阻む力が働いていく。ロシーンは司祭からイスラム教徒との付き合いをやめなければ教師は続けさせられないと告げられるし、カシムの方も許婚との結婚話が勝手に進められていく。そして、二人に別れがやってくる……。
民族が違うと、宗教だけでなく風俗、慣習、生活すべてに至るまで、あらゆる面が異なってくる。その一つ一つに戸惑い、驚き、時に苛立つ。異文化との接触とは、そういうものだろう。
映画では「恋愛」という関係を取り上げるが、これは恋愛に限らず、コンビニエンスストアの店員と客との関係だろうと同様なのである。軋轢(あつれき)に濃淡はあるものの、必ずや摩擦が起きるはずである。私たちは、まだまだ、そうした摩擦に慣れてはいない。
観光目的ではない形で外国人が大量にやって来るということは、そうした摩擦を覚悟しなくてはならないのである。
欲しいのは仕事による「稼ぎ」だけなのか
日本人が監督した『リベリアの白い血』(2015・福永壮志監督)は、アフリカのリベリアからアメリカへと仕事を求めて移り住む若者を描く。
シスコ(ビショップ・ブレイ)はリベリアのゴム農園で働いて、家族を養っている。管理されたゴム農園での作業は単純労働であり、面白みにも欠けている。そして、低賃金であり、労働環境も良くはない。共に働く仲間と環境改善を申し立て、ストライキを敢行するが、結局は何も変わらなかった。
いとこからアメリカでは高賃金の仕事にありつけると聞き、シスコは意を決してニューヨークへと渡る。ニューヨークではリベリアからやって来た者たちのコミューンが形成されていて、彼らの手を借りながらタクシーの運転手を始めるのだった。ニューヨークで成功したリベリア人、かつて軍隊で同僚だった男と、さまざまな人間と出会いながら、毎日毎日を淡々と過ごしていく……。
ここでは、リベリアでのゴム農園、そしてニューヨークでのタクシードライバーとしての仕事と、労働そのものが丹念に描かれる。いずれも彼にとっては「報酬を得るための手段」であり、時間の切り売りではある。しかし、「仕事」とはそこにプラスされるべき「何か」があるはずなのだ。
日本で働く外国人にも、そうした姿勢を垣間見ることがある。以前、ある韓国料理店の女性が、車椅子で訪れた若い日本人客に懇切丁寧な対応をするのを見かけた。気持ちいいほどの見事な接遇であった。仕事もまたコミュニケーションの一つであり、自国だろうと海外だろうと、コミュニケーションが生活の基本であることに変わりはないということなのだろう。
アクシデントがあると生活が激変する
多くの移民が、仕事のため他国へと移り住む。初めこそ就くべき仕事があるのだが、その仕事が確実に継続するかは別問題なのだ。
アメリカの小さな町を舞台とした『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000・ラース・フォン・トリアー監督)の主人公は、チェコスロバキアからの移民セルマ(ビョーク)である。
町の工場で働きながら、幼い息子ジーン(ヴラディカ・コスティック)と暮らしている。決して豊かではない。ただ、同じように貧しいながらも健気に生きる仲間と語らい、笑い合って働く。同僚の一人キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)には、いろいろと相談にも乗ってもらうのだ。
セルマは、目の病気にかかり、仕事でミスを連発するようになる。息子もまた同じ病気にかかっているため、何とか息子だけは手術を受けさせたいとお金を貯めていく。やがてセルマは工場をクビになる。さらに、親しくしていた警官ビル(デヴィッド・モース)に貯めていたお金を盗まれてしまう。そのことで、言い争い、もみ合っているうちに、ビルの持っていた拳銃が暴発。ビルは死亡する。セルマは逮捕され、移民であるがため、裁判も不利な展開となっていく……。
映画のラストは決して後味のいいものではないが、しかし、現実はもっと苛酷な面があるのだろう。病気や失業といった不測の出来事は誰にでも起こり得る。そのためのセーフティネットが築けるのかどうか。そのこともまた外国人労働者受け入れの課題ではあるのだ。
これは、すでに海外からの旅行者の医療問題として表面化している。全国の救急病院では、「医療費に関するトラブル(旅行保険などに加入していないため支払えないなど)」や、「言葉のコミュニケーション上のトラブル」が報告されているのだ。自民党は「外国人観光客に対する医療プロジェクトチーム」を発足させ、日本医師会は「外国人医療対策会議」を催している。
労働者となると、旅行のような短期滞在ではない。病気やケガも増えるだろう。経済的事由だけでなく、生活も含めた相談窓口、それも気軽に相談できる窓口を設定することが必要だろう。
実在の冤罪事件を教訓として
1920年代のアメリカ・マサチューセッツ州で実際に起きた事件をモデルとした『死刑台のメロディ』(1971・ジュリアーノ・モンタルド監督)は、イタリア移民の二人が冤罪(えんざい)によって、いかに「有罪」とされ、死刑となっていったかが描かれる。
拳銃による強盗殺人事件で、二人のイタリア移民サッコ(リカルド・クッチョーラ)とヴァンゼッテイ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)が容疑者とされる。目撃者は数人いて、誰もが犯人は二人だったと証言するのだ。
裁判で、弁護士はその目撃証言のあやふやさを指摘するが、検察官は初めから結論ありきで審議を進めようとする。裁判の最中、検察官の口からは差別的な発言、暴言が飛び出してくる。移民を「くだらん連中」と呼び、思想的立場を糾弾し(彼らは無政府主義者である)、移民はそうした犯罪に手を染めるのは当然だと論じる。
真犯人を知る者が現れ、弁護士は裁判のやり直しを求めるのだが、その申し出は却下されてしまう……。
1世紀前の冤罪事件ではあるが、こうした移民への視線は今も大差ないだろう。確かに、人権意識は浸透しているが、「よそ者」への差別意識は根強く残っている。
これは、日本でも取り上げられる「地域エゴ」の表出を見ていると明らかだ。誰もが自身の周り「だけ」は安泰であってほしいと願う。世の中に必要なものであっても、できるだけ遠ざけておきたいのだ。
外国人を、単なる「労働力」としてだけ受け入れようとするなら、必ずどこかに歪みが出てくるだろう。そのことを知ったうえで、私たちは「共に働き、共に生きる」術を学ばなくてはならない。
法務省公式サイト:新たな外国人材受入れ(在留資格「特定技能」の創設等)
山村基毅(やまむらもとき):1960年、北海道出身。ルポライター。インタビューを基軸としたルポルタージュを発表。著書に『ルポ介護独身』(新潮新書)、『戦争拒否』(晶文社)、『民謡酒場という青春』(ヤマハミュージックメディア)とさまざまなテーマにチャレンジしている。映画が好きで、かつて月刊誌にて映画評を連載したことも。