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『スパイの妻』で銀獅子賞!黒沢清監督の軌跡を辿る

今週のクローズアップ

スパイの妻
(C) 2020 NHK, NEP, Incline, C&I

 最新作『スパイの妻<劇場版>』で第77回ベネチア国際映画祭の最優秀監督賞にあたる銀獅子賞に輝いた黒沢清監督。同作の10月16日の公開を前に、国際的な評価も高い黒沢監督のフィルモグラフィーから、劇場公開作品を中心に紹介していきます。(編集部・大内啓輔)

 黒沢監督が商業映画デビューを果たしたのは、ピンク映画『神田川淫乱戦争』(1983)です。大学在学中から自主映画の世界で注目を浴び、相米慎二長谷川和彦といった監督の撮影現場で助監督や制作助手として経験を積んでおり、この作品では彼らが主導していた独立プロダクションが製作を手掛けていました。その後、にっかつロマンポルノとして作られながらも公開不可となり、のちに再構成して日の目を見た『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)、伊丹十三製作総指揮による『スウィートホーム』(1989)、松重豊などが出演したホラー『地獄の警備員』(1992)などを経て、1997年の『CURE キュア』を皮切りに国際的な評価を高めていくことになるのです。

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揺らぐアイデンティティーの恐怖

 『CURE キュア』では、その後の『カリスマ』(1999)などの黒沢作品で常連となる役所広司が刑事役を務め、連続して発生する猟奇殺人事件を追及する刑事の高部を主人公とした物語が展開していきます。犯人は現場で逮捕されたものの動機を覚えておらず、その手口さえ認識していない。その背後に共通しているのは、マインドコントロールを用いて人々を操作する間宮という男。物語では、間宮と接するうちに高部の心が確実に変化していくさまが描かれます。

CURE キュア
『CURE キュア』 - Cowboy Booking International/Photofest

 物語はいかがわしさを漂わせながら、観客は起こっていることの全貌を見通すことができない。高部は心理学者の佐久間(うじきつよし)とともに事件を追いながらも、謎の解決に近づいているという確かさもなく、終始、緊張感が途切れることがありません。黒沢作品にとって重要なモチーフである記憶喪失が全編にわたって展開し、恐怖をもたらすのが何かを捉えられないという独自のテーマが核となるホラーとなっています。本作はとりわけフランスで好意的に迎えられ、2016年の『ダゲレオタイプの女』が製作されるきっかけともなりました。

 『CURE キュア』から10年後の『』(2007)では再び役所を刑事役に迎えて、同じく連続殺人をテーマにした物語が描かれます。刑事の吉岡(役所)は捜査を進めていくなかで、現場に自分の指紋やコートのボタンなどが残されていることを奇妙に感じ始めます。しだいに埋もれていた過去の記憶と現在が入り乱れ、赤い服を着た女(葉月里緒奈)の幽霊の存在に悩まされることに。自分のアイデンティティーすら揺らぐような状況のなか、観客も足場の不確かな物語に翻弄されることになるのです。

ドッペルゲンガー
『ドッペルゲンガー』 - Mirovision/Photofest

 黒沢作品では確固たるものであると思っているさまざまな差異が何者かに侵食されていく恐怖が描かれます。この世とあの世、自分と他人、生と死……そうした不確かなアイデンティティーという問題をブラックユーモア全開で発展させたのが『ドッペルゲンガー』(2003)です。再び役所が主人公を演じ、一人二役による圧倒的なまでにノリノリの演技を堪能することができます。

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家族物語から夫婦の物語へ

 1999年には『ニンゲン合格』『大いなる幻影 Barren Illusion』『カリスマ』といった毛色の異なる作品を発表する旺盛ぶりを見せたのち、映画作家として海外における評価を決定的なものにしたのが、第54回カンヌ国際映画祭にて国際批評家連盟賞を受賞した『回路』です。当時の空気も取り入れながら、インターネットを媒介して人々が消えていくという日常を侵食していく静かな恐怖を描いています。

回路
『回路』 - Magnolia Pictures/Photofest

 『回路』では、死んだ者が壁の染みのようなものとして視覚化されるなど、恐怖を高める演出が冴え渡ります。生きている者と、この世ならざるものの境界が曖昧になっていくような、逃れられない怖さに浸ることができます。続く第56回カンヌ国際映画祭では、オダギリジョーが映画初主演を務めた『アカルイミライ』(2003)がコンペティション部門に正式出品され、その存在を国際的なものとしていくことになります。

トウキョウソナタ
『トウキョウソナタ』 - Regent Releasing/Photofest

 ミイラ研究に従事する研究者と出会ったことで悪夢のようなホラーを経験するヒロインを中谷美紀が演じた『LOFT ロフト』(2006)を経て、黒沢監督が新たな境地を切り開いたのが、香川照之小泉今日子が夫婦を演じた『トウキョウソナタ』(2008)です。香川ふんするサラリーマンが長年勤める会社を突然解雇されたことをきっかけに、家族それぞれの思いがあらわになっていく模様を描きます。社会問題も絡めながら、サスペンスの手腕を独自の家族物語に昇華したのでした。

リアル~完全なる首長竜の日~
『リアル~完全なる首長竜の日~』 - Condor Entertainment/Photofest

 2010年代に入り、黒沢監督は夫婦や男女の物語を手掛けていくことになります。テレビドラマ「贖罪」などを経て、『トウキョウソナタ』以来、5年ぶりの劇場映画となった『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013)では、自殺未遂で昏睡状態に陥った恋人(綾瀬はるか)を救うべく、センシングという最新医療技術によって彼女の意識下に潜入する青年(佐藤健)の物語が描かれます。現実と仮想の境界が溶解していくという黒沢作品のモチーフが応用されたサスペンス展開も魅力ですが、設定を乾緑郎の原作小説の姉弟から恋人に変えて、ラブストーリーにしているということは見逃せません。

 「夏の庭-The Friends-」などの湯本香樹実による小説をもとにした2015年の『岸辺の旅』では、3年間行方をくらましていた夫がある日ふいに帰宅し、離れ離れだった夫婦が旅に出るさまが描かれます。その旅とは、優介(浅野忠信)が失踪してから帰宅するまでに関わってきた人々を訪ねるものであり、やがて彼が姿を現した理由や妻(深津絵里)に伝えたかったことが明らかになっていきます。ここで黒沢監督は夫婦という関係を深く掘り下げ、真正面から描くことに挑戦しています。本作は第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞に輝きました。

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侵略者たちと試される夫婦の愛

 続く『クリーピー 偽りの隣人』(2016)や『散歩する侵略者』(2017)でも夫婦が主要な登場人物となっています。前者では西島秀俊竹内結子、後者では長澤まさみ松田龍平という贅沢なキャスティングも魅力です。『クリーピー 偽りの隣人』では、刑事から犯罪心理学者に転身した高倉(西島)が妻(竹内結子)と転居した家の隣人・西野(香川照之)がもたらす恐怖が怒涛のように押し寄せます。記憶喪失や繰り返される奇妙な事件といった黒沢的なモチーフを用いながら、掴み所のないサイコパスを表現した香川の熱演が光ります。ホラーでありながら、西野に侵食されてしまった後、それでも残る夫婦の愛についても考えさせられます。

 『散歩する侵略者』では、数日間行方をくらましていた夫・真治(松田龍平)が、別人のようになって鳴海(長澤まさみ)のもとに帰ってくることから物語が動き出します。突然、真治は「地球を侵略しに来た」と告白し、宇宙人であることを告白。家の外では一家の惨殺事件が起こったのを機に、さまざまな現象が発生していて……。宇宙人が人間の身体のみならず「家族」「自分」「仕事」「所有」といった概念を奪うというSFホラーとしても秀逸で、目に見えない形で侵略が進んでいく様子や、国家権力の横暴などはおぞましい。ここでも夫婦関係を修復する愛の物語であることが鍵となっています。

新境地にして総決算『スパイの妻』

 スピンオフとして撮られた『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017)や、前田敦子をミューズに迎えた『Seventh Code セブンス・コード』(2014)以来の『旅のおわり世界のはじまり』(2019)に続いて、蒼井優高橋一生が共演した「スパイの妻」がテレビドラマとして制作されました。スクリーンサイズや色調を調整した劇場公開版は第77回ベネチア国際映画祭での銀獅子賞という快挙を達成し、大きな話題を呼んだばかり。

スパイの妻
(C) 2020 NHK, NEP, Incline, C&I

 物語は太平洋戦争前夜、神戸で貿易会社を経営する優作(高橋)と妻の聡子(蒼井)が時代の荒波に翻弄される姿が描かれます。満州で恐ろしい国家機密を知った優作は、正義のために事実を世に問おうとして反逆者とみなされますが、聡子は「スパイの妻」として愛する夫と手に手を取って生きていこうと決意します。『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』などの濱口竜介が脚本に参加しているとあり、映画好きにはたまらない組み合わせが実現。黒沢監督の新境地にして総決算ともいえる傑作となっています。

 まずは神戸を舞台にした近代劇という点が新鮮。当時の情景を再現すべく、ロケ地や衣装、美術などはクオリティーが高く、高橋と蒼井を中心とした実力派のキャストによるセリフまわしにも並々ならぬこだわりが感じられます。どこまでも本心を見せない夫の優作を演じる高橋の好演も素晴らしく、タイトルロールを演じた蒼井による当時の女性を表現した演技には目をみはるほど。受け身だった妻が夫の秘密を知り、行動を開始する際の堂々たる存在感は感動的ですらあります。

スパイの妻
(C) 2020 NHK, NEP, Incline, C&I

 優作が満州で目にした関東軍の残虐な行為を明るみに出そうとする正義を阻止しようとする国家との攻防は、サスペンスフルな緊張感に満ちており、黒沢監督の面目躍如といったところ。黒沢作品に頻出する廃墟のような空間や照明の効果など、ホラーとしての味わいも十分に兼ね備えています。さらに劇中に登場する、優作が趣味で撮影している妻を出演させた8ミリフィルムが物語の鍵を握るなど、脚本の緻密さも随一のものといえるでしょう。そして、近年の黒沢作品に見られる夫婦という特別な関係をめぐる物語でもあり、これまでの黒沢映画のエッセンスが凝縮された作品となっているのです。

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