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スターも来ない、地味な記録映画の祭典が30年も続いたワケ

山形国際映画祭30年の軌跡

山形国際ドキュメンタリー映画祭30年の軌跡 連載:第1回(全8回)

 アジア初の国際ドキュメンタリー映画祭として誕生した山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下、YIDFF)が30年を迎える。「ヤマガタで会いましょう」を合言葉に、隔年開催して今年で第16回(10月10日~17日)。東北の地方都市に世界中から多彩な作品と人が集えば、笑いもあれば、波乱も起こる。むしろ、何が起こるかわからないから映画祭は面白い! ヤマガタを熱くさせた数々の“事件”と共に30年を8回にわたって振り返ります。(取材・文:中山治美、写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

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一過性ではない、市制100周年の記念事業を目指して

第1回の開会式
第1回の開会式の様子。会場は今もメイン会場として使用されている中央公民館。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 YIDFFは平成元年の1989年に産声をあげた。山形市の市制100周年の記念事業の一つだ。今でこそ映画産業が地方振興の起爆剤になるとして行政が主導となってフィルムコミッションができるなど、人々の映画への理解はだいぶ深まってきた。東京都あきる野市が市制15周年記念に『五日市物語』(2011)、同20周年記念に『あきる野物語 空色の旅人』(2015)を製作し、大阪府茨木市が同70周年を記念して前田敦子高良健吾主演『葬式の名人』(樋口尚文監督。8月16日に茨木市先行公開。9月20日より全国公開)を大々的に発表するなど、記念事業として映画製作に着手する例も増えてきた。

 しかし頻繁な人事異動も余儀なく行われる行政において、恒久的事業を英断するのは稀。まして当時は記録映画とか文化映画と称され一般的に地味な印象のあるドキュメンタリーにフォーカスし、スターの来場予定のない映画祭、しかも国際映画祭をいきなりぶち上げるとは、改めて画期的な試みであったことがうかがえる。

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市民へのPRイベント
山形市制100周年記念事業として開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭。市民へのPRイベントも開催された。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 そのカギを握るのが、当時、エフエム山形社長で山形市芸術文化協会専務理事を務めていた田中哲さんの存在だ。田中さんは山形市が発足し、市議会議員や市民の代表者からなる「記念事業計画策定市民委員会」のメンバーの一人だった。市民から募集して決まったメインテーマは「好きだから、さらに未来へ、やまがた100年 」。しかし市側から提案された記念行事案は祭りや市民運動会、仮装行列など一過性のものばかり。これに異議を唱えたのが、のちに“ YIDFFの生みの親”と称されることになる田中さんだった。

 「これらほとんどは従来の年中行事に多少着飾ったものであり、いわゆる“お祭り騒ぎ”でしかない。(中略)もっと規模の大きいものはないか、100年目を起点とし将来に継続できるものはないか」(田中哲著『私の放送史 ‐ 山形のメディアを駆けぬけた50年』より)。

小川紳介監督ら
山形にドキュメンタリー映画祭を設立するきっかけになった立役者・小川紳介監督(右端)。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 そこで田中さんが提案した一つが、記録映画祭の開催だった。これには、映画『三里塚』シリーズを制作後、山形県上山市に移住して農業を営みながら『ニッポン国 古屋敷村』(1982)などを発表していた 記録映画作家・小川紳介監督と田中さんとの親交があったことが大きい。

 時代の気運も後押ししたのだろう。1985年にソ連ではミハイル・ゴルバチョフ書記長による民主体制「ペレストロイカ(改革)」が起こり、1986年にはフィリピンでマルコス大統領による軍事政権からアキノ大統領による民主化政権に代わり、1989年は昭和天皇の崩御に始まり、天安門事件、さらにベルリンの壁が崩壊した。実写以上に劇的なことが現実社会で起こり、記録映画の重要性が高まった時でもあった。中でも30年続いた要因は、田中さんをはじめとする実行委員たちが映画祭にどんなビジョンを描き、映画祭を実現させていったのか。それに尽きる。

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国際映画祭を名乗るにふさわしい作品を集めることが先決!

田中哲
田中哲・元理事長。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 田中さんは創設に際し、日本で行われていた2つの国際映画祭の“先輩”である広島国際アニメーションフェスティバル(1985年創設)と東京国際映画祭(同年創設)を1987年に視察している。広島ではアニメーションの持つ表現力と無限の可能性に心打たれたと同時に、市を挙げての運営と歓迎ぶりに感銘を受けたという。対して、当時、東京・渋谷で行われていた東京国際映画祭には厳しい意見を述べている。

 「あの雑踏と騒音の中ではまことに影が薄く、いつどこで何をやっているのか、その存在感が不明な状態であった」(田中哲著『私の放送史 ‐ 山形のメディアを駆けぬけた50年』より)。

イヴァルス・セレツキス監督
栄えある第1回の大賞を受賞した『踏切のある通り』のイヴァルス・セレツキス監督。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 映画関係者でも国際映画祭へ行くと、レッドカーペットをスターが闊歩(かっぽ)するような華やかな部分だけを見て、映画祭とはこういうものだという認識を抱きがちだ。しかし田中さんは、冷静かつ客観的な視点を持って、今も指摘される東京国際映画祭の問題点を一目で見抜いている。東京に比べて、人口約25万人の地方都市・山形だからこそ映画に集中できる環境が保てるという確信。さらに田中さんは上映作品を鑑賞し、評論家たちの評判も芳しくなかったことから、国際映画祭を名乗るには、それにふさわしい良質な作品を集めることが先決であることをスタッフとの共通認識に掲げている。

 そのために相談を仰いだのが、映画評論界の重鎮である佐藤忠男さんや前述した小川監督であり、実務を行うものとして紹介されたのが矢野和之さんだったという。矢野さんは独立行政法人国際交流基金を経て、映画配給会社「シネマトリックス」を立ち上げ、ユーセフ・シャヒーン監督『アレキサンドリアWHY?』(1979)やベルナルド・ベルトルッチ監督『暗殺の森』(1970)などを配給していた。矢野さんは東京事務局長となり質の面で長らくYIDFFを支えることとなる。

花笠音頭で歓迎
花笠音頭でゲストを歓迎した山形の市民たち。(写真:山形国際ドキュメンタリー映画祭)

 かくして、映画が主役のYIDFFの第1回が1989年10月10日~15日に開催された。応募総数は、関係者の予想を大幅に上回る221本で、うち80本を上映した。日本で初の国際ドキュメンタリー映画祭の開催に映画関係者の期待は高まり、新潟でちょうど『阿賀に生きる』(1992)の撮影を行っていた佐藤真監督ら制作チームは、車で山形に駆け付け、馬見ヶ崎川の河川敷にテントを張って寝泊まりしながら参加したという伝説が残っている。期間中の来場者は1万1,920人だった。

 もっとも映画業界の評価とは裏腹に、やはりスターも来ず話題に上りにくい映画祭は市民の理解を得るのが難しいのか。次第に市の財政難に伴い、映画祭開催年に1億円、準備年に5,000万円の助成金が投入されているYIDFFがやり玉にあがるようになった。結果、2006年に映画祭実行委員会は山形市から独立し、2007年にNPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭となり、運営が民営化された(2014年に認定NPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭に名称変更)。

 主な批判を要約すると「多額の税金が投入されている映画祭が、市民にどれだけ還元してくれているのか」というものだ。しかしYIDFFはその後も年々成長を遂げ、2015年は最多の165本を上映し、2万4,290人を動員。前回の2017年も161本を上映し、2万2,089人が来場している。 確かに、生産性が問われる現代社会において、文化事業は成果が目に見えにくいかもしれない。しかし築いてきた実績と評価、そして今や世界に名だたるYIDFFブランドはプライスレスだ。

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【懐かしアルバム】河瀬直美監督

河瀬直美監督
『につつまれて』で1995年に参加した河瀬直美監督

 東京2020オリンピック競技大会の公式映画監督を務める河瀬直美監督。“世界のカワセ”伝説の始まりはYIDFFだった。1995年(第4回)の「アジア百花繚乱」部門に短編『につつまれて』(1992)と『かたつもり』(1994)で参加し、前者は国際批評家連盟賞特別賞を、後者は奨励賞を受賞。河瀬監督にとっては国際映画祭デビューにしていきなりの受賞だった。

 この時、「アジア百花繚乱」の審査員だったのが撮影監督の田村正毅さん。河瀬監督の才能に惹かれた田村さんは、河瀬監督がカンヌ国際映画祭でカメラドール(新人監督賞)を受賞した初長編作『萌の朱雀』(1997)で撮影を担当した。YIDFFは出会いを育む場所なのだ。

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