未完で上映、非難を浴びた映画が数々の賞を受賞するまで
山形国際映画祭30年の軌跡
山形国際ドキュメンタリー映画祭30年の軌跡 連載:第2回(全8回)
『人生フルーツ』(2016)に『主戦場』(2018)と近年のミニシアターのヒット作といえばドキュメンタリー。しかし1990年代はじめは稀だった。そんな中で劇場公開され、いまだ語り継がれている名作がある。公害事件・新潟水俣病の被害を受けた阿賀野川流域で暮らす人々の日常を映した佐藤真監督『阿賀に生きる』(1992)だ。国内外で数々の賞を受賞した同作の成功の陰には、山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下、YIDFF)での“事件”があった。(取材・文・写真:中山治美、写真:村井勇、小林茂、藤岡朝子、山形国際ドキュメンタリー映画祭)
阿賀野川流域で暮らす人々と共に約3年間
映画祭に選出されたものの、上映日までに仕上げ作業が間に合わず、未完成のまま上映したという例は、カンヌ国際映画祭のようなメジャー映画祭でもよくある。映画『阿賀に生きる』も、第2回(1991)YIDFFの特集上映「日本映画パノラマ館」に“編集途中のままでいい”というお墨付きで招待されたのだ。
しかし、16mmフィルムでの撮影で、音がまだ付いていない状態。佐藤真監督らは熟考した結果、映写機で投影される撮影フィルムに合わせて、上映会場ミューズ(2008年閉館)に持ち込んだ編集機スタインベックで録音した音声フィルムを同時に流すという荒技を使った。映像と音がずれないよう、スタッフが微調整を行いながらのスリリングな上映は、まさに前代未聞だった。
『阿賀に生きる』は、佐藤監督らスタッフ7人が現地の通称“阿賀の家”に住み込み、農作業を行いながら阿賀野川流域で暮らす人々の日常を追った約3年間の記録だ。製作費の多くは、全国約1,400人から集めたカンパ金。1989年に撮影がスタートし、スタッフは稲刈りシーズンの撮影を一時中断して第1回のYIDFFに新潟から車で駆けつけている。皆で市内を流れる馬見ヶ崎川河川敷にテントを張って寝泊まりしながら貪るように映画を鑑賞し、農業をテーマにした作品に触発されて「自分たちの映画もここで上映したい」という思いを抱いたという。
撮影は1991年春に終わった。しかし製作資金が底をつき、編集作業が遅々として進まない。その矢先の同年7月、特集上映「日本映画パノラマ館」の作品選定を行っていた映画館ミューズの元支配人・斎藤久雄と桝谷秀一(現・認定NPO法人山形国際ドキュメンタリー映画祭理事)が阿賀の家に訪ねてきた。同特集は現代日本の若手映像作家にスポットを当てたもの。
桝谷によると、人選に苦心し、YIDFF創設の立役者である映画『三里塚』シリーズの小川紳介監督に相談したところ「新潟で撮影している真面目な青年がいる」というアドバイスを受けての訪問だった。2人は約6時間に及ぶラッシュ(未編集)を鑑賞すると、「このままでいいので上映したい」と即決。加えて招待にあたっては、スタッフの宿泊用に短期賃貸マンションを用意し、上映作品見放題のフリーパスを発行するという。第1回のYIDFF期間中、野宿生活を送ったスタッフたちは心躍った。「こんな状態でいいんですか?」と、二つ返事で参加を快諾したという。撮影の小林茂が当時を振り返る。
「何より、YIDFF開催の10月までには作品を仕上げようという励みになりました」(小林)
22時にスタートした上映に暗雲が・・・
だが冒頭で記した通り、完成までには至らなかった。それでも未完成版は、ラッシュ時より若干短い約3時間半。22時にスタートした上映は途中休憩を挟み、午前2時過ぎ に終了した。その後ロビーでは、観客も入り混じっての懇親会が開催された。
最初こそ和やかな雰囲気だったが、酒が入ったことも手伝って、徐々に雲行きが怪しくなる。あちこちから聞こえてくる批判の声。小林の師でもある柳澤壽男監督からは「佐藤君はあの村で何を見てきたんだ? 昭和電工に対して、まだ(追及の)声を上げていない人もいるだろう。おじいさんとおばあさんのたわごと話で終わるのか?」と。
厳しい声だった。だが小林はその言葉より、耳を傾けなければならないスタッフの態度の方が気に障ったという。
「佐藤さんの顔は引きつっていたけど、批判の声に1つ1つ真摯に答えていた。なのに他のスタッフ5人は後方にいて、タバコを吸いながら議論の輪の中に入ろうとしない。その様子を見た瞬間『これはダメだ。俺たちのことを言われているんだぞ!』という怒りが込み上げてきたんです」(小林)
小林はスタッフに怒鳴った。そして佐藤監督には、未完成版をラッシュの状態に戻してほしいと懇願し、7人全員で意見を出し合いながら編集することを提案したという。
「スタッフ皆で阿賀の家に住み、それぞれが村人と関係を築いて、互いに影響を受け合い何かしらの変化があったはずなのに、それが作品に表れていない。このままでは佐藤真の小手先だけの映画になってしまう。スタッフが一丸となってこの作品に取り掛かっていなかったことを山形で気付かされました。佐藤さんも寛容でしたね。普通、撮影の立場の者がそんな要求を突き付けたら、けんか別れになってもおかしくない状況です。でも佐藤さんは僕の意見を受け入れ、再編集に応じてくれを受け入れました」(小林)
新潟県内約100か所に及ぶ自主上映
紆余曲折を経て、『阿賀に生きる』は1991年末に完成し、1993年に開催された第3回YIDFFのインターナショナル・コンペティション部門に“凱旋”した。新潟県内約100か所に及ぶ自主上映の成功、東京・六本木にあったアートシアターのシネ・ヴィヴァン・六本木(1999年閉館)初となるドキュメンタリー映画の公開、文化庁優秀映画作品賞受賞、1992年度キネマ旬報 ベスト・テン日本映画部門第3位など数々の名誉を携えて。その年の同部門はニコラ・フィリベール監督『音のない世界で』(1992)、イグナシオ・アグエロ監督『氷の夢』(1992)、フレデリック・ワイズマン監督『動物園』(1993)と秀作ぞろいだったが、『阿賀に生きる』は優秀賞を獲得した。
「YIDFFの大きなスクリーンで上映された時にはうれしかったですね。『阿賀に生きる』の撮影はYIDFFと同じ1989年に始まったわけですが、佐藤さんも僕も助監督経験はあっても自分たちで映画を作るのは初めてで、現場のことは知らない。そんな状況の中、YIDFFに参加したことは非常に勉強になりましたね。『阿賀に生きる』は、YIDFFに育てられました」(小林)
撮影から10年後、佐藤監督&小林が再び新潟に入り、続編『阿賀の記憶』(2004)を製作している。さらに20年後の2012年には16mmニュープリント版が製作されてリバイバル公開された。そして毎年5月4日には阿賀野市安田公民館で『阿賀に生きる』追悼集会(主催:阿賀に生きるファン倶楽部)が行われている。これは映画の上映と水俣病被害者追悼を兼ねたもので、今年で27周年を迎えた。残念ながら佐藤監督は2007年9月に急逝したが、『阿賀に生きる』は今も新たな伝説を生み出し続けている。
なお、YIDFFでは、2013年から作品のフッテージや断片をそのままスクリーンに映し、製作者や専門家はもちろん一般観客なども交えて討論をする「ヤマガタ・ラフカット!」を実施している。少人数で制作することの多いドキュメンタリーはどうしても孤独で思考が内にこもりがちとなるため、幅広い意見を聞くだけでなく、「人に見せる」ことの重要性を認識してもらう目的があるという。ポスト『阿賀に生きる』を発見できるかもしれない。
【懐かしアルバム】アレクサンドル・ソクーロフ監督
昭和天皇を描いた『太陽』(2005)や『エルミタージュ幻想』(2002)で知られるロシアの巨匠アレクサンドル・ソクーロフ監督。優れたドキュメンタリー作家としても知られ、YIDFFにもサナトリウムの入院患者の記憶を手繰る『ロシアン・エレジー』(1993)で第3回のインターナショナル・コンペティション部門に参加した。
すでに国際的にも高い評価を得ていたソクーロフ監督は特別賞にご不満だったようで、受賞者会見では写真のような憮然とした表情に。その後もYIDFFでは『精神(こころ)の声』(1995)が第4回(1995)の特別招待作品として、『ドルチェ 優しく』(1999)が第11回(2009)の特集上映「シマ/島-漂流する映画たち」の中で上映されている。