50年以上も愛され続けるカルバン・クラインの秘密
映画に見る憧れのブランド
シンプルでシックなデザインで「アメリカのベストデザイナー」(※1)と呼ばれるカルバン・クライン。ジーンズから下着、香水、枕カバーまで幅広く展開しているブランドだということは皆さんもご存知でしょう。ニューヨークの小さなコートメーカーから始まったカルバン・クラインがファッション王国にまで育った大きな要因は、その広告にあると言われています。世界中に論争を巻き起こしたカルバン・クラインの広告や衣装が登場した映画からブランドを考察してみましょう。
ヒッピーの時代にシンプルでスタイリッシュなデザインを打ち出す
1942年、ニューヨークのブロンクスに生まれたカルバン・クラインは、裁縫師だった祖母の影響を受けて小さな頃から服を縫い、ファッションの名門校であるニューヨーク州立ファッション工科大学へと進学。大学を卒業した後は、ファッションの問屋街で有名な7番街にあるコート/スーツのメーカーに就職します。
パリコレに通い、ファションショーで見るデザインをコピーするのが彼の仕事。厳しい上司と長い残業に耐えながらも、5年間、そこでカッティングやテーラードのあらゆる技術を身に着けたといいます。その後、フェイクファーのアウターを作るメーカー勤務を経て、1968年、幼馴染とともにカルバン・クライン社を立ち上げ7番街にスタジオを構えました。(※2)
会社設立後間もないある日、老舗高級デパート、ボンウィット・テラー(現在は閉鎖)のコートバイヤーが場所を間違えてカルバンのスタジオに入ってきたのですが、彼のコートを目にし、早速買い付けます。ボンウィット・テラーの広告に使用されたそのコートはニューヨーク・タイムズ誌に載り、それを目にしたサックス・フィフス・アベニューやバーグドルフ・グッドマンなどの名だたる高級デパートから注文が矢継ぎ早に続き、カルバン・クライン社の総売上は創業1年目にして1億円以上にも上ったのだとか。(※2)
そして、カルバン・クラインの成功を決定的にしたのは1970年の初コレクション。この初コレクションはファッションの業界紙WWDからも絶賛され、1971年までに年間の売上は5億円以上に伸び、スポーツウェア、ブレザー、下着など商品の多角的経営を始めました。
この時代、若者のファッションを席巻していたのはカジュアルなヒッピーファッションとミニスカート。そんななか、カルバンが発表したエレガントでクラシックだけれども、モダンでスタイリッシュな着心地のよい服は、ほかの服ともコーデがしやすく、アメリカのファッション産業を成熟させたと言われています。(※3)
1973年にはファッションのアカデミー賞とも呼ばれるコティ賞を30才にして受賞。その後も、ライセンシングビジネスを軌道にのせて、1970年代後半には世界のトップデザイナーへと成長したのです。(※2)
15才のブルック・シールズを起用したテレビCM
とはいえ、現在のカルバン・クラインのブランドイメージは1980年代に入ってから作られたもの。彼が最初に論争を巻き起こした広告は、1980年、当時15才のブルック・シールズを起用したジーンズのキャンペーンでした。
赤ちゃんの頃からテレビCMに出演し、子役スターとして活躍していたブルック・シールズはルイ・マル監督の『プリティ・ベビー』(1978)に主演し一躍スターに。1917年のニューオーリンズにある売春宿で育った娼婦の少女を描いた本作は、12才だったブルックのヌードシーンが児童ポルノだと物議を醸してしまいます。さらに、1980年の『青い珊瑚礁』でも無人島に漂流したティーン男女の性と自己の目覚めを、製作当時はまだ14才だったブルックがロングヘアで胸をカバーはしていましたが、劇中のほとんどを半裸で演じ、世界中にショックを与えました。
話題作への出演で世界的なアイドルになっていたブルック・シールズが、すらりとした長い脚をタイトなジーンズに包み、シャツの前をほどけて、「私とカルバンの間にあるものを知ってる? 何もないわ」と放ったテレビCM。セクシャルすぎると批判を浴びて、多くのテレビ局から放映拒否や制限を受けることに。ところが、このコマーシャルはブランドの知名度をさらに上げ、カルバンのジーンズはデザイナーズジーンズの先駆けとして爆発的な大ヒットを飛ばします。(※2)。
カルバン自身は当初、ブルック・シールズを広告に使うことを反対していたそうですが、この成功に気をよくしたのか、この後もブランドは若々しいセクシュアリティを打ち出した広告キャンペーンを展開し、現在のカルバン・クラインのブランドイメージが確立されたのです。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にも!
1982年、カルバンは下着のラインを作ろうと決心。彼がまずやったことはファッション・フォトグラファーのブルース・ウェバーを雇うことでした。後年、ジャズトランペット奏者チェット・ベイカーを描いたドキュメンタリー『レッツ・ゲット・ロスト』(1988)でアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた彼は、当時珍しかった男性のヌードを広告にしたことで大きな話題を集めました。その結果、カルバン・クラインの名前がプリントされたブリーフは飛ぶように売れたそう。
その証拠に、ロバート・ゼメキス監督作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)では、マイケル・J・フォックス演じるマーティが1955年に戻り、母のロレインに出会いますが、マーティが履いていたカルバン・クラインの下着を見て、名前がカルバン・クラインだと勘違いする場面があります。映画でそのような使用ができるほど、1980年代半ばにはカルバン・クラインの名前は世界中に知れ渡っていたのです。
メンズファッションを変えた「マーキー・マーク」のジーンズの腰穿き
鍛え上げた肉体と確かな演技力で人気のハリウッド俳優マーク・ウォールバーグが、元ラッパーだったことはご存じですか? ラップバンド「マーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチ」のリーダーとして1991年にデビューし、ティーンの間で大ブレークしていました。翌年の1992年には、当時のスーパーモデルケイト・モスと一緒にカルバン・クラインの広告に登場し、ジーンズを腰穿きにしてブリーフを見せるファッションを披露。この腰穿きトレンドは全世界に大インパクトを与え、メンズのファッションを永遠に変えたとも言われています。
しかしその後、マーク・ウォールバーグは早々とマーキー・マークを卒業し、1994年以降俳優に専念。マーティン・スコセッシ監督作『ディパーテッド』(2006)ではアカデミー賞助演男優賞にノミネート、『ザ・ファイター』(2010)では製作・主演を務めてゴールデングローブ賞主演男優賞 (ドラマ)ノミネートされるなど、現在は俳優としてだけではなく、プロデューサーとしても実力を発揮しています。
カルバン・クラインのワンピで奔走するアン・ハサウェイ
アン・ハサウェイをハリウッドのトップ女優にのし上げた『プラダを着た悪魔』(2006)。ローレン・ワイズバーガーの同名小説を映画化したこの作品は、ニューヨークの女性の間で大流行していた小説でした。ファッションを単なる消費だとバカにしていたアンディが、ミランダの仕事ぶりから、ファッションはときの社会や産業を色濃く反映し、カルチャーを牽引する生産的役割もあることに気が付き、ファッションを楽しみながらキャリアアップのために奔走する姿に思わず共感してしまう物語です。
ミランダの子どもたちのために「出版される前のハリー・ポッターの最新作を手に入れよ」という彼女の命令にマンハッタンを駆けずり回るアンディが身につけているのが、カルバン・クラインのカーキのワンピ。彼女が肩にかけるケイト・スペードのバッグとともに、カルバン・クラインの品のよいカジュアルシックな服はオンにもオフにも使えると、当時、ニューヨークで働く若い女性の御用達ブランドでした。
カルバン本人は2003年以降、デザイナーや経営から引退し、公の場に姿をあまり現さなくなりました。そのセクシャルな広告で話題を集めながらも、創業時から現在に至るまでカルバン・クラインが世界のトップブランドであり続ける理由。それは、日常の様々なシーンで着られるシンプルなシルエットと確かなテーラード技術に裏付けられた着心地のよさにあるのではないでしょうか
「シンプルで着心地のよいスタイリッシュな服--それは決して大げさではなく、極端でもない」by カルバン・クライン(※3)
【参考】
※1…World Clothing and Fashion: An Encyclopedia of History, Culture, and Social Influence - Mary Ellen Snodgrass
※2…Fashion History Lessons: Calvin Klein - HighSnobiet
※3…Calvin Klein - Encyclopedia Britannica
此花わかプロフィール
映画ライター。NYのファッション工科大学(FIT)を卒業後、シャネルや資生堂アメリカのマーケティング部勤務を経てライターに。ジェンダーやファッションから映画を読み解くのが好き。手がけた取材にジャスティン・ビーバー、ライアン・ゴズリング、ヒュー・ジャックマン、デイミアン・チャゼル監督、ギレルモ・デル・トロ監督、ガス・ヴァン・サント監督など。(此花さくや から改名しました)
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