追悼特集:藤原啓治さんが語った「野原ひろし」
「クレヨンしんちゃん」野原ひろし役、「交響詩篇エウレカセブン」ホランド・ノヴァク役、映画『アベンジャーズ』シリーズのアイアンマン=トニー・スターク役の吹替などで知られる声優の藤原啓治さんが4月12日に死去したことが所属事務所より発表された。
筆者は何度か藤原さんに「クレヨンしんちゃん」について話をうかがう機会をいただいたことがある。ここでは、他の媒体に掲載されたインタビューも含め、藤原さんがどのように「理想の父親」とも言われるようになった野原ひろしを作り上げていったかを紐解いてみたい。(大山くまお)
27歳で射止めた野原ひろし役と試行錯誤
1992年にスタートしたアニメ「クレヨンしんちゃん」。藤原さんがオーディションに合格して野原ひろし役を得たのは、声優としてのキャリアを歩みはじめて2年目だった27歳の頃。もちろん、父親を演じるのは初めて。35歳という設定のひろし役を受けたのは年齢層が高い人ばかりで、自分と同世代の声優はオーディション会場で一人も見かけなかったとか。
このときのオーディションは今では珍しい「掛け合い」で行われた。藤原さんは2組のしんのすけ候補の声優と掛け合いを行ったが、2組目でその後しんのすけを演じた矢島晶子さんとペアを組んでいる。
見事にひろし役を射止めた藤原さんだが、「お父さん役を演じるからといって、お父さんを意識したところで、自分に何ができるんだろう?」と感じていたという。当初はセリフも少なく、「ただいま」と言うだけの回も少なくなかった。
そんな中、放送が始まった2年目ぐらいの頃に壁にぶつかってしまう。ひろしを演じていて違和感を覚えるようになったのだ。作画や演出がどんどん変化しているのに、自分の演技がスタート当初から変わっていないことが原因だった。そのことに気づいた藤原さんは、半年ほどかけて試行錯誤しながら演技を変化させていく。
このときに藤原さんが気づいたのは「変化してもいい」ということだった。父親だから、夫だから、ひろしだからといって、何かにとらわれる必要はない。このことについて次のように語っている。
「『ひろしはこういう人です』と決めつけないようにしようと思っていますね。『ひろしはこんなことしないだろ』『こんなことしゃべらないよ』とは思わないように。演じる側の変なこだわりで、こぢんまりしちゃうのはマズいかな、と」(「クレヨンしんちゃん大全」(双葉社))
だからこそ、ロボットになろうが(『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』)、ニワトリに変身しようが(『映画クレヨンしんちゃん オタケべ!カスカベ野生王国』)、女装しようが(『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』ほか多数)、ひろしはひろしのままでいられたのだろう。
「このままではひろししかできなくなってしまう」
「クレヨンしんちゃん」は放送開始から半年もすると視聴率がうなぎ上りになり、1993年7月には歴代最高視聴率28.2%を記録。国民的人気作品として不動の地位を得たが、同時に藤原さんはある悩みを抱えることになる。
それは「カッコよさそうな役のオーディションの話がまったく来なくなった」ことだった。ひろしの役のイメージが強すぎて、所属事務所が候補に藤原さんの名前を挙げるだけで先方から断られることがある一方、一気に父親役が4つも5つも来ることがあった。30歳を過ぎたばかりの藤原さんにとっては死活問題だったはずだ。
「このままではひろししかできなくなってしまう」と焦ったが、「しんちゃん」という作品の幅の広さと、「変化してもいい」ことに気づいていたことが功を奏した。藤原さんはひろしを演じることで、演技の幅を自在に広げていき、どんどん新しい役を得るようになったのだ。
藤原さんは実績を積み重ね、実力派声優としての地位を不動のものにしていく。2009年のインタビューでは「いろいろな顔をもつひろしというキャラクターを通して、自分もものすごく成長したと思います」「ひろしを通していろいろな実験をすることもできたし、あれこれ試行錯誤した結果、27歳ではできなかったことを今やることができています」と振り返っていた(「声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント」主婦の友社)。
『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のひろし
ひろし役を大きく膨らませていった原恵一監督との出会いも大きい。ひろしについて「男のいちばんだらしない部分を持ったキャラクターで、それを描くのがすごく面白かった」という原監督だが、なによりも藤原さんの声の役割が大きかったとも語っている。
「最初は出番が『ただいま』と『いってきます』くらいしかなかったのに、スタッフが藤原さんの上手さを知るにつれてひろしのウェイトが重くなっていったのは間違いないと思います」(「クレヨンしんちゃん大全」(双葉社))。余談だが、原監督は藤原さんとよく飲みに行っていたようで、お酒を飲みながらのトークイベントでは何度も「啓治、好き」と告白(?)していた。
原監督は劇場映画作品でもひろしをフィーチャーしていく。初監督映画の『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』では、ひろしが女刑事の東松山よねと二人で旅する旅情あふれるシーンや兄になったばかりのしんのすけに語りかけるシーンが印象的に描かれた。
藤原さんと原監督のコラボレーションの最たるものが、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』だ。「懐かしさ」で世界を支配しようとする組織イエスタデイ・ワンスモアの陰謀で洗脳されてしまったひろしが記憶を取り戻すシーンは、大きな感動を呼んだ。
しんのすけに嗅がされた自分の靴の匂い(ひろしの足は武器になるほど臭い)によって、ひろしは35年にわたる自分の人生を回想する。大きな父の背中を見ていた子どもの頃、淡い初恋と失恋、上京と就職、みさえとの出会い、長男しんのすけの誕生、マイホームへの引っ越し、どんなに仕事で疲れ切った日でも温かく出迎えてくれる家族たち。いつしか幼い頃の自分のように、しんのすけが自分の大きな背中を見つめるようになっていた。すべてを思い出して、ひろしはむせび泣く。そして組織のリーダー、ケンに向かって「オレの人生はつまらなくなんかない!」と言い切るのだ。
藤原さんもひろしを演じていて最も印象的だったシーンとして『オトナ帝国の逆襲』の回想シーンを挙げている。「収録時は亡くなった父親の姿が常に頭の片隅にありました。誠に勝手ながら、この作品を尊敬する私の父親に捧げています(笑)」(V-STRAGE「しんちゃん通信」スペシャルインタビュー「野原ひろし役藤原啓治」)。ちなみに、最後の「(笑)」は藤原さんが付け足したもの。きっと照れくさかったのだろう。
「普通に家族を守るのって、たいしたことだよ」
ひろしについて「すごくカッコいい男だと思います。あんなバタバタした日常を受け入れて、カラリと生きることができるなんて、現代においてかなり強い人間だと思います」(DVD「クレヨンしんちゃん きっとベスト 凝縮!野原ひろし」ライナーノート)と語っていた藤原さん。器が大きくて、イヤミなところがなく、後ろ向きにならない。そして人間臭い男だという。
藤原さんは「憧れとしては、(野原)ひろしに、なりたいんですよね」とはっきり言う。「『家族を守ること』も『人類を守ること』も“ヒーロー”の根底は一緒な気がします。サラリーマンでああ見えて、ひろしも身近な1人のヒーローなのだなと」(ORICON NEWS、2018年4月22日)。ちなみに自身にとってのヒーローを問われた藤原さんは「両親」と答えている。
筆者が藤原さんに世の中のお父さんたちへのメッセージを求めたところ、次のような答えが帰ってきた。
「『普通に家族を守るのって、たいしたことだよ』ってことですね」
「僕にとっては当たり前じゃないことが、世界中で当たり前のこととして行われている。それってすごいことだと思います」
藤原さんが演じることによって、野原ひろしは世界で一番身近なヒーローになった。当たり前じゃないことを、さも当たり前のように、必死になって毎日のようにこなし、家族を守るために奮闘する父親、母親の姿を映し出しているから、「クレヨンしんちゃん」という作品は今も変わらず人気があるのかもしれない。
藤原さん、本当にありがとうございました。