ユマ・サーマン、戦うヒロインから母親までの半生
あの人は今
クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』『キル・ビル』シリーズのヒロイン役で世界中の映画ファンを魅了した女優ユマ・サーマンも、すでに50歳。本格的なアクションのできる戦うヒロインのアイコン的存在でもあり、華麗な恋愛遍歴の持ち主でもあるなど話題に事欠かない女優人生を歩んできました。子どもたちも成長し、女優としてだけでなく一人の女性としても新たなステージを歩んでいるユマの半生を振り返ってみましょう。(平沢薫)
芸術的なインテリ一家出身
その個性的な美ぼうからして一般庶民とは思えないユマですが、イメージ通り、彼女が育った家庭はかなりユニーク。父親ロバート・サーマンはコロンビア大学の教授で、専門はチベット仏教学。ユマという名前は、チベット仏教の概念である大中観のチベット語から名づけられています。チベットで暮らしていたことがあり、英インデペンデント紙などによればユマの幼い頃、父親に会いにダライ・ラマが自宅にやってきたこともあるそうです。
母親ニーナ・フォン・シュレプルゲは、ファッション誌VOGUEなどで活躍した元モデル。ドイツ人とスウェーデン人の両親を持ち、メキシコシティで生まれ、ストックホルム、ロンドンニューヨークと世界をまたにかけて活躍していました。最初の結婚は、ユマの父親に会う前で、約1年しか続きませんでしたが、夫はLSD研究で知られる元ハーバード大学教授ティモシー・リアリー。ジョージアン・ジャーナル紙でのユマの母親のインタビューによれば、彼女にリアリーを紹介したのは画家のサルバドール・ダリでした。
ユマは、そんな文化的、芸術的かつ国際的な両親の元、兄1人弟2人のいる唯一の娘として育ちました。この両親が築いた家庭の雰囲気が、彼女の知性と感性を育んだに違いありません。女優になってからも、両親や兄弟との仲良くイベントに出席する姿が頻繁にパパラッチされています。
15歳でモデル、17歳で映画デビュー
ユマのキャリア は最初から順調でした。15歳でモデル事務所と契約し、17歳で『ミッドナイト・ガール』(1987)で映画デビュー。すぐに、アカデミー賞作品賞にノミネートされたスティーヴン・フリアーズ監督の『危険な関係』(1988)や、テリー・ギリアム監督『バロン』(1988)と話題作への出演が続きました。
大ブレイクしたのは、タランティーノ監督と組んだ『パルプ・フィクション』(1994)。この作品で、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞など数々の映画賞で助演女優賞にノミネートされました。そして2度目のブレイクが、同じタランティーノ監督の『キル・ビル』(2003)、『キル・ビル Vol.2』(2004)。2000年ごろから、『チャーリーズ・エンジェル』(2000)『トゥームレイダー』(2001)などの戦うヒロインを主人公にしたアクション映画が多くつくられるようになりました。『キル・ビル』でユマが演じた、黄色いトラックスーツに身を包んで日本刀を構える姿は、映画史に残る戦うヒロイン像として印象的です。
最初の結婚はゲイリー・オールドマンと
そんなユマについて、なにかと話題になるのが華麗な恋愛遍歴。最初の結婚の相手は、後に『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(2017)でオスカー主演男優賞を受賞するゲイリー・オールドマン。2人は、『ステート・オブ・グレース』(1990)の撮影現場で出会ったと言われています。当時、ユマは18歳、ゲイリーは30歳。しかもユマはこの時、同作の監督であるフィル・ジョアノーとの交際が噂されていました。
さらに、ゲイリーは妻のレスリー・マンヴィルが長男のアルフィーを出産したばかりなのに、妻子を置いてユマと一緒に暮らし始めたという、ドラマチックな恋愛でした。2人は翌年、ゲイリーの離婚が成立直後に結婚しましたが、なんと11か月後に離婚。2人は離婚の原因を語っていませんが、ゲイリーの飲酒癖が原因との噂も。ユマはこの結婚について、後に1996年のヴァニティ・フェア誌のインタビューでこう語っています。
「間違いだった。でもほかに何が言えるかしら? 彼は本当に偉大な俳優で、出会ったときに私は18歳で、彼は12歳年上だった。熱狂的な恋愛だったけど、終わるべくして終わりがきた。でも彼は私が初めて愛した人よ」
2度目の結婚はイーサン・ホークと
そして、ユマが2度目の結婚をした相手は、後に『魂のゆくえ』(2017)や『6才のボクが、大人になるまで。』(2014)で数々の映画賞を受賞するイーサン・ホーク。2人は『ガタカ』(1997)で共演して出会いました。
2人は同い年で、当時27歳。すぐに交際を始めましたが、2年間の交際の中でイーサンはプロポーズを2度も断られ、やっと結婚したのは長女マヤ・ホークが生まれる2か月前。イーサンは、初の小説「痛いほどきみが好きなのに」を献辞でユマに捧げており、彼の初監督作『チェルシーホテル』(2001)はユマが主演なことからも、当時の2人の熱愛ぶりが偲ばれます。2人の間には、娘マヤに続いて息子レヴォン・ホークも生まれました。
ところが、2人は2004年に離婚。これはイーサンが子どもたちのベビーシッターのライアン・ショーヒューズと不倫したことが原因だと言われています。この結婚について、2020年の米情報サイトWomen Workingのインタビューで「私たちの結婚は失敗に終わりました。でも私の結婚の失敗は、すべて私に責任があると思っています。ほかの誰かを非難しても、気持ちがよくなるわけではありません」と語っています。この潔さ! みんなが知っているイーサンの浮気に触れないところもクールです。
華麗なる恋愛遍歴は大物だらけ!
結婚以外の恋の噂もお相手も有名人が続々。ゲイリーとの離婚後、1993年頃には『恋に落ちたら…』で共演したロバート・デ・ニーロと噂に。1997年頃に『愛という名の疑惑』(1992)で共演したリチャード・ギア、『ビューティフル・ガールズ』(1995)共演のティモシー・ハットンとも一緒にいるところが目撃されました。そしてジョン・キューザックとは、ゲイリーとの離婚後の1992年頃に交際が噂され、さらにイーサンとの離婚後の2003年頃にも噂になりました。離婚すると慰めてくれるお友だちなのかも?
そして、イーサンとの離婚後は、ユマの趣味がちょっと変わったのかもしれません。それとも映画業界内の恋愛が嫌になったのでしょうか、交際相手は2人いますが、どちらも実業家で億万長者。まずアメリカのホテル王アンドレ・バラージュとは2003年から交際して2007年に破局しましたが、2015年に短い間ですがまた交際しています。
そして、もう1人がフランスの大富豪アーパッド・ブッソン。彼とは2度も婚約し娘も生まれましたが、結婚しませんでした。まず2007年に交際を始めて2008年に婚約、2009年に婚約破棄。ところが交際が復活してまた婚約。2012年に娘ルナが生まれましたが、2014年にまた婚約破棄したのでした。2017年には娘の親権を法廷で争い、ブッソンがユマに高額の婚約指輪の返却を迫るなど争いが泥沼化しましたが、ユマが親権を手に入れています。
ほかにも、2014年頃にはタランティーノ監督とも噂になりましたが、ユマはこれを否定してVs.Magazineのインタビューで「タランティーノは『新聞によれば、僕らは結婚したらしいよ』と笑っていたわ」と語っています。2018年には、その前年にブロードウェイの舞台で共演したジョシュ・ルーカスとの交際も噂されました。とにかくあらゆる共演者と噂になってしまうのは、ユマのあふれる魅力のせいでしょうか。
現在進行形のユマの愛情の対象
そんな華麗な恋愛遍歴を誇るユマですが、今現在愛を注いでいるのは自身の子どもたち。2015年のピープル誌のインタビューで「私はバカみたいに子どもたちを愛しているの。そして彼らを誇りに思っている。彼らはほかの人たちに対して品位と敬意を持って行動する。親なら誰でも思い描く理想像そのものなのよ」と子どもたちについて語っています。
ユマのこの発言も、最近の子どもたちとの姿を見れば納得。まず、ユマが愛する娘のマヤは、両親と同じ俳優への道を歩み始めたところ。Netflixオリジナルシリーズ「ストレンジャー・シングス 未知の世界」(2019)に続いて、タランティーノ監督の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)に出演。また、シンガーとしてもデビュー。彼女が奇妙な人魚にふんした「To Love a Boy」の音楽クリップも話題を集め、2019年には初の来日公演も行いました。
また、姉よりもユマに似たイケメンの18歳の息子レヴォンは、ユマと一緒にディオールのパリのファッションショーの会場に登場して、注目を集めました。彼は短編映画『ブラックアウト(原題) / Blackout』(2018)に出演していて、これから俳優への道に進む可能性大。次女のルナはまだ7歳ですが、今後すてきな女性に成長していくに違いありません。
ユマ自身も順調に俳優業を続けていますが、今後は子どもたちも同じ道に進みそう。ユマは母であるだけでなく、彼らのよき先輩としての役割を担うことが多くなっていくのではないでしょうか。