ジブリの魔女はどう描かれてきた?新作「アーヤと魔女」に向けて総まくり
スタジオジブリでは初めての全編3DCG長編アニメとなる最新作「アーヤと魔女」の制作が今年6月に発表された。企画は宮崎駿、監督は『ゲド戦記』の宮崎吾朗。2020年冬、NHK総合テレビで放送が予定されている。
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「アーヤと魔女」の原作はイギリスのファンタジー作家で『ハウルの動く城』の原作者、ダイアナ・ウィン・ジョーンズによる同名の児童小説。この作品に惚れ込んだ宮崎駿が長編アニメ化を企画したというもの。
原作では身よりのない子どもの家で育った女の子、アーヤが魔女の家に引き取られるところから物語は始まる。意地悪な魔女にこき使われ続けるアーヤだが、実は彼女も魔女の血を受け継いでいて、魔女が飼っていた黒ネコのトーマスとともに魔女に立ち向かう物語。魔女、魔法、不思議な生き物、不思議な家などが次々と登場するが、賢い上に不屈の精神の持ち主である主人公、アーヤが何より魅力的だ。
ところで、ジブリ映画には何人もの「魔女」が登場する。ここではジブリ映画における魔女がどのような存在だったかを簡単に振り返ってみたい。
『魔女の宅急便』のキキ
なんといっても有名なのは『魔女の宅急便』(1989)の主人公、見習い魔女のキキ。魔女の血を受け継いでおり、ほうきを使って空を飛ぶことができる13歳の女の子。古くからのしきたりに従って見知らぬ街で魔女の修行を積むことになり、自分の力を生かした「魔女の宅急便」を開業する。相棒として黒猫のジジがいる。母のコキリも魔女であり、先輩の魔女も登場する。
キキは魔女とはいってもおどろおどろしさは一切なく、普通の女の子と言ってもいい。監督の宮崎駿も「最初の出発点として考えたのは、思春期の女の子の話を作ろうということ」「しかもそれは日本の、僕らのまわりにいるような地方から上京してきて生活しているごくふつうの女性たち」(スタジオジブリ, 文春文庫編集部編「ジブリの教科書5 魔女の宅急便」文藝春秋)などと語っている。
では、キキが使う魔法とは何だったのか? それを宮崎駿は「才能」と言い換えている。「この映画での魔法とは、等身大の少女たちのだれもが持っている、何らかの才能を意味する限定された力なのです」(宮崎駿「出発点」スタジオジブリ、徳間書店)。『魔女の宅急便』は、何らかの才能を持っていた等身大の思春期の少女が、一度その才能を失いながらも、また這い上がっていく物語なのである。
『千と千尋の神隠し』の湯婆婆
キキとかけ離れた魔女といえば、『千と千尋の神隠し』(2001)の湯婆婆だろう。強欲で横暴であり、千尋から名前を奪って自分が支配する巨大な湯屋で働かせる。さまざまな能力を持ち、悪事を働くことも躊躇しないが、利益をもたらした千尋を褒めたり、横暴な客を自ら撃退しようとしたりするなど、経営者としての度量と資質を持つ。また、息子の坊を溺愛するなど、善悪両方の面を併せ持ったキャラクターといえる。
宮崎駿は湯婆婆についてユニークな解説をしている。湯屋はジブリであり、湯婆婆はプロデューサーの鈴木敏夫と自分自身を合体させた存在だとスタッフに説明していたというのだ。「突然理不尽に怒鳴るとかね。でも、経営者っていうのはそういう側面を持ってますよ。やっぱりお金も必要なんですよ。愚かな母親でもあるからね」(宮崎駿「風の帰る場所」ロッキング・オン)。千尋が湯婆婆に会うシーンは、18歳の就職したての子どもが初めて社長と一人で会うときのことと重なるとも語っている(宮崎駿「折り返し点」岩波書店)。強欲で、理不尽で、ときたま愛情を発揮する湯婆婆は、これから働こうとしている少年少女を迎え入れる世間の象徴なのだろう。
『ハウルの動く城』のサリマンと荒地の魔女
『ハウルの動く城』(2004)にはふたりの魔女が登場する。ひとりはハウルの魔法の師匠であり、魔法学校の校長であるサリマン。もうひとりは、ソフィーに呪いをかけて90歳の老婆に変えてしまった荒地の魔女である。
強大な魔力を持つサリマンは、王室付きの魔法使いでもあり、一国の支配者といった風情がある。ダイアナ・ウィン・ジョーンズの原作では全く違うキャラクター像(代わりに映画のサリマンに似たキャラクターはいる)なこと、これも原作には登場しない国家間の戦争(宮崎駿監督は当時起こっていたイラク戦争に大きな影響を受けて本作を作ったと証言している)と深く関わっていることを考えると、魔女というより為政者、支配者という面が強いキャラクターだろう。
一方、でっぷりと肥え太り、若さと美しさに執着してハウルの心臓を狙い、ソフィーに嫉妬して90歳の老婆に変えてしまう荒地の魔女は、いかにも魔女らしい魔女だ。見た目は演じた美輪明宏の姿をモデルにしているという。とはいえ、荒地の魔女はどこか間抜けで、愛らしくさえある。サリマンに魔力を奪われてからはただの老婆になるが、ソフィーの恋の相談にも乗ったりする。美輪は「善と悪が簡単に区別できないということを、知らず知らずに教えてくれるような存在と思いながら、役に臨みました」と振り返っている(スタジオジブリ, 文春文庫編集部編「ジブリの教科書13 ハウルの動く城」文藝春秋)。
こうしてみると、ジブリ映画に出てくる魔女たちは、特殊な能力は持っているものの、サリマンを除けば非常に人間臭いキャラクターばかりだ。わかりやすい善悪の区別はなく、魔法も万能ではない。魔女たちが織りなす物語はいつも現実を写し出している。だけど、現実をそのまま描くのは息苦しすぎるから、ファンタジーであることがとても大切なのだ。
「アーヤと魔女」のアーヤは、荒地の魔女のように醜く、湯婆婆のように強欲な魔女にこきつかわれるが、千尋のように懸命に働き、キキのように自分の中の魔女としての才能を存分に発揮できるようになっていく(アーヤはキキや千尋より、もっとしたたかだ)。宮崎駿が魅了されるのも、もっともの物語なのである。(大山くまお)