モード界の革命児と呼ばれたピエール・カルダンと映画
映画に見る憧れのブランド
1922年、イタリア・ヴェニスに近い村の貧しい農家に生まれたピエール・カルダン。イタリア移民の彼はパリでゼロからスタートし、ライフスタイルにまつわる多く文化活動にその名を刻み、モード界の革命児と呼ばれました。実は彼のキャリアは映画の衣装製作から花開いただけではなく、名作をモチーフにしたり、名優と深い親交を結んだりすることで、その名を世界にとどろかせた一面もあります。彼の功績を映画とともに追ってみましょう。
ジャン・コクトーからクリスチャン・ディオール
第二次世界大戦が終戦した1945年、23歳の頃にモードの世界に入るためにパリへやって来たカルダン。最初の仕事は当時大人気だったクチュリエール、ジャンヌ・パキャンのアトリエでした。めきめきと頭角を現した彼はパキャンのメゾンで、映画『美女と野獣』(1946)の衣装を依頼にきたジャン・コクトー監督と出会います。
コクトーに気に入られたカルダンは豪華絢爛な衣装で作品を飾り、映画は大ヒット。本作は後年制作されたディズニーのアニメや実写版とは異なり、ベル、野獣、王子、アヴナンの複雑な関係性を描くことで根源的な人間性をあぶり出す、哲学的な野心作でした。
その後、エルザ・スキャパレリの店に転職し、次にクリスチャン・ディオールのもとでオートクチュールの技術を習得します。
舞台衣装製作会社から「バブルドレス」コレクションへ
ほどなくディオールから独立し、舞台衣装製作会社を立ち上げたカルダン。舞台や上流階級のパーティー用の衣装を制作して大繁盛していましたが、女性の社会進出が進むことを見越して、顧客の対象を働く若い女性に絞ることに。そんな中生まれたのが、1954年の初コレクション「バブルドレス」。(※1)
女性の体の周りを風船が浮いているようなイメージのソフトなドレスで、ディオールが流行させた「ニュー・ルック」に真っ向から挑むもの。コルセットでウエストを締め付けてスカートを膨らませた、女性の体のラインを強調する「ニュー・ルック」は、その華美なスタイルで戦時中の暗いファッションを明るくし一世を風靡していましたが、戦後10年経った1950年半ばには、働く女性はより着心地のよい服を望んでいたのです。
実はこのドレスは、カルダンの友人、アルベール・ラモリスが監督した『赤い風船』(1956)にインスパイアされたもの。(※1)1956年度のアカデミー賞脚本賞とカンヌ国際映画祭のパルム・ドール(短編)を受賞した本作は、パリを舞台に6歳の少年と赤い風船の交流を描いた短編。赤い風船が心をもった生き物のように感情たっぷりに動き、人生の儚さや尊さについて考えさせられる名作です。
オートクチュールからプレタポルテへ
カルダンが次に目標としたのは、オートクチュール・ファッションを特権階級以外の女性にも着てもらうこと。(※1)1959年、クチュリエとして初めて、プレタポルテのコレクションを発表。なんとピエール・カルダンの既製服が、百貨店で買えるようなったのです。興味深いことに、この決断はその2年前に日本を訪れたことがきっかけだったそう。(※1)
1957年、立体三次元カットを教える授業のために文化服装学院が1か月間、カルダンを日本に招聘。この時カルダンは、日本の若者たちがキモノから洋服にシフトしようとしている流れを目の当たりにし、日本が巨大マーケットになると確信しました。(※1)
そのために1960年、世界市場にカルダンのクリエーションを普及させようと、販売経路とライセンスビジネスを作り上げましたが、オートクチュール組合はオートクチュールのイメージを低下させたとして、彼を組合から除籍してしまったのです。(※1)
前衛的なスタイルが若者に人気
1964年、カルダンは「コスモ(宇宙)コール」コレクションを発表。ビニールやメタリック、宇宙飛行士のヘルメットなどを用いたこのコレクションの背景には、米ソが競った月面着陸計画がありました。当時のクチュールブランドがグラマラスでクラシックなファッションを展開していたなかで、この未来的なコレクションは世界に衝撃を与え、若者から大きな支持を得ました。
日本人モデル・松本弘子の起用
オートクチュールを敵に回しながらも、カルダンが起こしたファッション革命は、前衛的なファションやプレタポルテやライセンス契約だけではありません。白人女性が中心だったファッションの世界に、松本弘子を始めとする有色人種モデルや男性モデルを起用し、モードを多様な民族の女性や男性のために開いたのです。これに続いたのが、イヴ・サンローラン。
10月2日に公開されるドキュメンタリー『ライフ・イズ・カラフル! 未来をデザインする男 ピエール・カルダン』は、サンローランとの衝撃のエピソードを含め、ゴルチエやナオミ・キャンベルなど様々なファッション界の重鎮、そしてカルダン本人のインタビューをもとに彼の一生を紐解きます。
ちなみに、大ヒットした山口百恵と三浦友和のドラマ「赤い疑惑」(1975~1976)も、カルダンが全面的に衣装協力しました。(※2)彼のスタイリングは今見ても古臭くなく、若々しい2人にぴったりなフレッシュさ。このドラマは、2人が実は血の繋がった兄妹だったという悲劇に不治の病や出生の秘密が重なる、非常にドラマチックな作品です。
女優ジャンヌ・モローとの恋
カルダンとフランスの名女優である故ジャンヌ・モローとの5年にも渡る恋は有名。『エヴァの匂い』(1962)に出演するモローはカルダンの店に衣装を依頼しに訪れ、ハンサムな彼に一目惚れ。彼もモローの大ファンでしたが、自分から告白する勇気がなく、痺れを切らしたモローがカルダンの海外出張を調べ上げて空港で何時間も待ち伏せし、偶然を装って飛行機の隣に座ったのだとか!(※1)
しかも、ホテルではカルダンの隣の部屋をとったモロー。荷物を置いてすぐに彼の部屋をノックしようと部屋から足を踏み出した瞬間、同じことをしようとしていたカルダンと廊下でばったり! そのまま2人は燃えるような恋に身を任せたといいます。(※1)
その後も『天使の入江』(1963)、『マタ・ハリ』(1964)、『黄色いロールス・ロイス』(1964)、『ビバ!マリア』(1965)といった映画で立て続けにモローの衣装を作ったカルダン。一連の作品では1910年代から1960年代の衣装をデザインしましたが、カルダン得意のプリーツ、ドレープ、リボンなどの凝ったディテールとモダンな感性が融合した個性的な衣装で観客を楽しませてくれます。
カルダンの公式自伝「ピエール・カルダン ファッション・アート・グルメをビジネスにした男」によると、モローとカルダンは子どもを作ろうとしたができず、それが別れの一因になったのだとか。それでも2人の間には友情が続き、『ライフ・イズ・カラフル! 未来をデザインする男 ピエール・カルダン』では、年老いた2人のほほ笑ましいエピソードが盛り込まれています。
進化し続けるブランド帝国
ファッションのほかにも、食器、自動車や芸術家具のデザインなど、あらゆる方面へクリエーションを広げ、揺るぎないブランド帝国を築き上げたカルダン。彼の世界観を物語るものとして、エスパス・ピエール・カルダンの設立とマキシムの買収があります。
1970年、カルダンは劇場を買収してエスパス・ピエール・カルダンをオープン。国内外の才能あふれた新人の発掘、そして、映劇人の交流の場を与えるのが目的の劇場でした。カルダンには子どもがいない代わりに、芸術文化を育てたかったとも言われています。(※1)実際に名優ジェラール・ドパルデューを見出したのも彼。劇場は2012年に閉館されましたが、現在、別の場所に映画館も入る新エスパス・カルダンを建設中とのこと。(※2)
1981年には1893年創業の老舗レストランのマキシムも買収。フランスが誇る食のエスプリを海外に発信したかった彼は、レストラン経営にもライセンスビジネスを活用し、マキシムの名を世界中に普及させました。
2020年に98歳を迎えた彼の原動力とは何なのでしょうか。「よりよい生活を提供するという意味で、ピエール・カルダンのファッションも、マキシムも、エスパス・ピエール・カルダンも、すべて文化の民主主義といえるのです」と自伝で語った彼(※1)。貧しい移民だったピエール・カルダンの野望は、特権階級のものだった文化を世界中の普通の人々と分かち合うことだったのです。
【参考】
※1…駿河台出版社「ピエール・カルダン ファッション・アート・グルメをビジネスにした男」シルヴァナ・ロレンツ著 永瀧達治訳
※2…『ライフ・イズ・カラフル! 未来をデザインする男ピエール・カルダン』プレス資料
此花わかプロフィール
映画ライター。NYのファッション工科大学(FIT)を卒業後、シャネルや資生堂アメリカのマーケティング部勤務を経てライターに。ジェンダーやファッションから映画を読み解くのが好き。手がけた取材にジャスティン・ビーバー、ライアン・ゴズリング、ヒュー・ジャックマン、デイミアン・チャゼル監督、ギレルモ・デル・トロ監督、ガス・ヴァン・サント監督など。(此花さくや から改名しました)
Twitter:@sakuya_kono Instagram:@wakakonohana