『劇場版『アンダードッグ』前後編』森山未來 単独インタビュー
かっこいい存在であろうとすることはやめた
取材・文:高山亜紀 写真:映美
武正晴監督×足立紳脚本の名タッグが手掛けた『劇場版『アンダードッグ』前後編』。どん底から這い上がろうとする男たちの物語で、森山未來はチャンピオンの道からはずれ「かませ犬」になってもリングに立ち続ける主人公のボクサー・末永晃を演じている。凄まじい役づくりで知られる森山は今回もプロ選手並みのトレーニングを実行。そこまで彼を駆り立てるものは? 彼にとって表現とは? 多くの俳優たちに影響を与える唯一無二の存在が彼ならではの言葉で語る。
とにかくボクシングが上手くなりたかった
Q:武正晴監督×足立紳脚本でボクシング映画となると観客の期待が自然と高まってしまいますが、プレッシャーはなかったですか。
『百円の恋』と同じ二人がまたボクシング映画を撮るというのは、もちろん、それだけで世間的には絶対にハードルが上がっていると思いますが、僕はそこまで気にはしていなかったです。
Q:ボクシング映画だと、体づくりやトレーニングも過酷だと思いますが、覚悟のようなものは必要ではなかったですか。
あまり、そんな風には思わなかったですね。ボクシングをやることで、自分の体がどう変化するのか。どういう重心になっていくのか。そういったことに興味がありました。映画をやるからにはストーリーや役柄もありますが、僕はどういうスポーツや運動が今の自分の体にどう影響があるのか、その経過を見ることが単純に楽しい。それは覚悟とはまた違うのかもしれません。大変でしたけど、楽しかったです。
Q:前編と後編で気持ちの変化がわかるくらい、素晴らしく体を作りこんでいます。
ボクシングに関して言えば、撮影のほぼ1年前から始めて、途中からボクシング指導の松浦(慎一郎)さんに入ってもらいました。松浦さんにコンスタントに教えてもらいながら、末永のボクシングスタイル、映画でボクシングをどう見せるかみたいなことを話し合って作っていきました。
Q:そんなに前から?
ただ上手くなりたかったんです。上手いに越したことはないですから、ずっとシャドウとかやっていました。撮影前は舞台の合間でもあったので、ウォーミングアップはほぼボクシングの稽古となっていました(笑)。
Q:ボクシングをやって自然と体形は変わっていったんですか。
結局、見せるための筋肉を作ってもそれはボクサーの体ではありません。腹筋などはしなければならないんですが、縄跳び、シャドウボクシング、ミット打ち、サンドバッグをやることで、ボクサーとしての体を作っていきました。
体で覚えていったボクサーであることの壮絶さ
Q:食事制限などは?
撮影の順序が結構バラバラで、ストーリー上、絞れている時とそうでない時もあるので、撮影期間中に太ったり、痩せたりを多少やらなくてはなりませんでした。タンパク質の摂り方などはやっぱり参考になります(笑)。全然知らなかったので勉強しました。
Q:体を作っていくなかで、役への理解が深まるところはありましたか。
それは絶対あります。ボクシングをやって、松浦さんから聞いたり、自分でも調べていくうちにボクシングというものの内情、中で渦巻く人生や人間像がいろいろ見えてくるんです。そういうことを目の当たりにして、ボクサーでいることの壮絶さを自分なりに知っていきました。体を追い込んでいきながら、それが身になるのかどうか試合でしか証明できない。負けたらどれだけ体を鍛えていても意味がない。それほど明快な世界でもあるからこそ残酷な世界でもある。そういったことはやりながら感じていったことでもあります。
Q:末永の役づくりについて教えてください。脚本を読んだ印象は?
最初、ぱっと読んだ時は、無言というか寡黙さが際立つ存在だったので、どこかある種ハードボイルドっぽい感じのニュアンスなのかなと思ったんです。でも実際にはそれだけではもたせられない。2時間の映画ならそれでもなんとか貫き通せるかもしれないんですけど、5時間近くありますから(笑)。これだけ周りの人が動き回ってる中で、自分が軸となり、主人公的な位置に立たなきゃいけない。ハードボイルドを貫いているだけだとスカスカになってしまう。そこで考え始めたところはありますね。
Q:特にどんなことを考えたのでしょう?
なぜ、こいつは無言なのかというのはすごく考えました。それはきっと出すべき言葉が見つからないみたいな瞬間もあるんでしょうけど、大半は彼自身のずるさでもある。まあ、どっちもでしょうね。ある種、自分の中に言葉が残ってこないというか、相手からの言葉が自分のなかに留まらないようにしちゃっている。ボクシングだけじゃなくて、彼自身の人生でも負けが立て込み過ぎているから、それを1個1個受け止めるメンタルはもうなくて、まともに返せる状況じゃない。だから、どんどん周りの言葉が通り抜けていくみたいな感覚。そういう風にいろんな理由は考えました。
迫力の試合シーンで誰よりも力を発揮したのは武監督?
Q:ダメでダサくて、でもかっこいい。かっこよく作ってないのに、負けて輝いている存在なのが不思議でした。
かっこいい存在であろうとすることは、撮影前からやめちゃおうと思ってました(笑)。ハードボイルドにするのは簡単。でも、ハードボイルドで決め込むのも自分自身が恥ずかしいっていうところもあったのかもしれない。そもそも、そういうキャラクターではないっていうか、負けがこれだけ立て込んでいるのに、ハードボイルドで居続けられるような人間でもないだろうなという風にも思いました。
Q:試合がものすごい迫力で、本物の試合よりも手に汗握る感覚でした。
それに関しては、カメラマンの西村(博光)さんの技術や武監督の演出、松浦さんの手の付け方にあると思います。当然、本当に当てているわけではないので、試合の攻防としてどっちがどう押して、どんな駆け引きがあって、どう見せるべきか。松浦さんが全部計算して作っていったので、こちらとしてはその通りにやったということになってしまいます(笑)。
Q:武監督の演出の特別さを感じた瞬間はありましたか。
エキストラの動かし方はどの助監督よりも一番、上手かったです。見事なまでに皆さんを操っていました。それはもう彼の助監督時代の経験の賜物だと思います。武さんってやっぱり現場の人なんです。現場に生きる人という感じがすごくする。もしくは映画を撮れる喜び、撮っている喜びが誰よりも強いんじゃないかって思わせるようなところがあります。そこに対する渇望がすごい。現場至上主義的で、そこにあるものを切り取っていきさえすればいいというやり方は、どこか活動写真の意味合いに近いような気がします。もちろん芝居をつけたりとかはありますが、それよりこのスタッフが集まって、この役者たちでこのシチュエーションなら、迷わずそれを撮るだけ。それぐらいのある種の潔さのようなものを感じました。
自分に影響を与えている大きな存在とは?
Q:ピークは過ぎていると自分でもわかっていながらリングに立ち続ける夢にしがみつく、夢を捨てきれない末永の気持ちはどのように感じましたか。
夢を捨てきれないとか、しがみつくという言葉があてはまるかどうかわからないけど、でも舞台に立つことや役を演じること、そういった表現に対する中毒性みたいなものは自分のなかにやっぱりあります。ある種のワーカホリック的な部分というのは、否定できないと思います。
Q:龍太(北村匠海)にとっての末永のように、森山さんにとって自分を鼓舞する存在の先輩や作品はありますか。
限定された人は特にはいないですが、作品を観たり、誰かの表現を観たりして、「あ、いいな」「そっちよりこっちの方が面白いんじゃないか」と思うことはあります。展示作品を観て、インスパイアされる空間的なイメージだったり、それはもういろんなところからインプット、アウトプットがあります。
Q:むしろ森山さんが末永のような先輩なんでしょうね。
いつも思うのは、周りと同じことをやっていてもしょうがないということ。自分自身にストイックかどうかより、自分にできる表現、どうアプローチするのが面白いのかというのは常に考えます。年齢的に上の人たちから得るものも多いし、逆に今の10代、20代から得るものもある。そこに年齢、キャリアは関係ありません。強いて影響があるとしたら親かな。自分たちが生きたいように生きている親。その下で育ったせいです(笑)。
しなやかな獣のような森山未來。感性をむき出しにして相手の一瞬の変化も見逃さない。相手が怯むくらいの鋭さ。自分自身の観察はそれよりもずっと的確なはずだ。きっと自分の体を容れ物のようにとらえていて、作品ごとに自由自在にコントロールしているに違いない。体だけでなく顔に至るまで、大小すべての筋肉を彼は一つ一つ意識的に動かす。観客の気持ちを操ることぐらい造作もないことだ。やはり、モンスターなのかもしれない。
映画『劇場版『アンダードッグ』前後編』は公開中