肌の色の濃さによって人生が変わってしまう社会の異様さ『PASSING -白い黒人-』
厳選オンライン映画
今観たい最新作品特集 連載第5回(全7回)
日本未公開作や配信オリジナル映画、これまでに観る機会が少なかった貴重な作品など、オンラインで鑑賞できる映画の幅が広がっている。この記事では数多くのオンライン映画から、質の良いおススメ作品を独自の視点でセレクト。今回は今観たい最新作品特集として全7作品、毎日1作品のレビューをお送りする。
『PASSING -白い黒人-』Netflix
上映時間:98分
監督:レベッカ・ホール
出演:テッサ・トンプソン、ルース・ネッガほか
1920年代、夏の日差しが照りつけるニューヨークの街角で、身なりの良い一人の婦人が一流ホテルの入り口の前に立っている。彼女は意を決して歩き出し、白人のドアマンの視線を浴びながら、広いダイニングへと続く空間を“通り抜け”ていく。席に座った婦人は常に伏目がちで、周囲の目を気にしては、せわしなく化粧を直し始める……。
スパイを主人公にしたサスペンスのような奇妙な場面から始まる『PASSING -白い黒人-』は、アメリカ人作家のネラ・ラーセンの小説「白い黒人」(1929)を原作に、人種差別問題をある方向から描いた特徴的な一作だ。
そのホテルのダイニングで、偶然に婦人は、もう一人の婦人と思いがけない再会をする。この2人は、実は幼い頃をともに黒人社会で過ごした、アフリカにルーツを持つアメリカ人だった。当時、黒人の血が少しでも入っていれば、その人物は黒人だと考えられていた。しかし、いま彼女たちは、白人の客ばかりのホテルで白人を装って会話をしているのだ。
“通り抜ける”という意味の「パッシング」とは、有色人種が白人のふりをすることを指す言葉でもある。1920年代当時、一般的に有色人種は、この一流ホテルのような場所に立ち入ることが難しかった。しかし、体質やルーツなどの要因によって肌の色が薄い人物は、白人のふりをすることで、本来なら入れない場所を“通り抜ける”ことが可能となるのである。
婦人の片方、アイリーン(テッサ・トンプソン)は、黒人の医者の夫を持ち、黒人居住者の多いハーレムで、当時の黒人としては比較的裕福な生活を送っている。彼女は時折、白人と同等のサービスを受けられるという利点や、差別を受けたり危険な目に遭うことを回避するという理由から「パッシング」を行っていたのだ。
一方、もう片方のクレア(ルース・ネッガ)は、常に白人として生活し、白人の男性と結婚までしていた。夫はクレアを白人だと信じきっていて、人種差別的な言動をするような人物であったが、それでもクレアは、自分の手に入れたい生活のため、長年の間「パッシング」を続けているのである。
アイリーンとクレア、白人のふりができる2人の女性は、それぞれ黒人社会、白人社会に身を置いて生活を送っている。常に嘘をつかざるを得ないことで孤独な思いをしているクレアは、この再会を機に、なにかとアイリーンに接触するようになり、密かにハーレムに出向き黒人社会での生活をも満喫しようとしていた。そんなクレアに、アイリーンは複雑な思いを抱き始める……。
この物語を書いた原作者ネラ・ラーセンは、アフリカをルーツに持つ父親と、デンマークからの移民の母親の間に生まれていて、黒人と白人、二つのコミュニティーに身を置いてきた人物である。そして彼女はその両方において、自分の人種的な特徴や立場から、偏見の目で見られる経験をしたのだという。つまりアイリーンとクレアは、ある意味で、どちらもラーソンの境遇を基にした存在なのである。だからこそ、本作における彼女たちの不満や孤独、恐怖には強いリアリティーがあるのだ。
演出と脚本を手がけたのは、本作が初監督となるレベッカ・ホール。白人の俳優として知られている彼女だが、実は彼女の祖父もまた、アフリカ系やネイティブ・アメリカンなどのルーツを持つアメリカ人であり、白人として生活していたのだという。彼女が、本作を監督デビュー作に選んだのには、そのような理由がある。
初監督ながら、レベッカ・ホールは全編モノクロ、そしてスタンダードサイズという、あえて古めかしい趣向を凝らした攻めた姿勢で、彼女たちに起こる理不尽な出来事を描いていく。白と黒の濃淡によって表現された画面は、肌の色の濃さによって人生が変わってしまうという社会の異様さをより際立たせている。さらに幾度となく流れる、不思議な印象のピアノ曲は、エチオピアの修道女であり作曲家・演奏者でもあるエマホイ・ツェゲ=マリアム・ゴブルーのものだ。クラシックやジャズの要素が入り交じった、ジャンルを超越した曲調は、まさに本作の内容にふさわしいといえる。
「パッシング」は、一見、自分の出自を偽る卑怯な振る舞いのように見えがちである。だがよく考えてみると、「人種のるつぼ」といわれるアメリカでは、多くの“白人”とされている人々や、有色人種を差別している人間ですら、さまざまな有色人種の遺伝子を持っている場合が少なくない。つまり、アメリカで白人として生活している多くが、知ってか知らずか、「パッシング」を行っているということになってしまう。そのように考えると、そもそも白人が有色人種を差別すること自体や、有色人種のルーツを持つ者が周囲の目を気にして、出自を隠そうと考えてしまうような社会状況そのものの方が異常だといえよう。
劇中で描かれたアイリーンやクレアの境遇は、人種の違いによる偏見が非科学的で意味のないものだという事実が示されている。そして、この物語がたどり着く結末のように、そんなくだらない考え方によって、歴史のなかで多くの人間の一生や生活が大きく変えられてきたこと、そして出自を偽ることを余儀なくされている人々が現在も存在するという現実に、思いを馳せざるを得ないのだ。(文・小野寺系、編集協力・今祥枝)