“永遠の妖精”オードリー・ヘプバーン、今こそ見たい名演技の数々
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今なお“永遠の妖精”として愛され続けるオードリー・ヘプバーン。そんな彼女の女優としての栄光と、その裏側にあった素顔を映し出す長編ドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』が5月6日より公開される。現在でも写真集や評伝、人生論にいたるまで、数多くの関連書籍も刊行され続け、ファッションアイコンとしても憧れの対象となっている。これほどまでに愛され続けている往年のハリウッドスターは、ほかに見当たらない。もうすぐ没後30年、輝きを増し続けるオードリーの魅力を出演作品から辿ってみたい。(編集部・大内啓輔)
少女時代の孤独とバレエとの出会い
オランダ貴族とも縁の深い家系に生まれたオードリーは、イギリスやオランダ、ベルギーを行き来する日々を過ごし、読書に親しみながら成長していく。その一方で、両親の関係は良好とはいえず、その緊張からオードリーは過食症になるなどの不安定な精神状態を経験することにもなった。また、父はファシスト団体に加入し、反ユダヤ主義に傾倒。母親は複数の雑誌にナチス礼賛の言葉を寄稿しており、両親はベルギーでナチス・ドイツの進軍に声援を送った。
そんななか、1935年に父親が渡英し、ファシスト団体である黒シャツ党に加入。その後まもなく、父親との別離を経験し、そのことがオードリーの生涯に影を落とすことに。それからオードリーはイギリスの寄宿学校に入学し、バレエと出会う。寄宿していたケント州の村にレッスンのためにやってきたバレエのダンサーに惹かれてレッスンを始め、その才能を認められるように。だが、1939年、開戦を迎えると寄宿学校生だったオードリーはイギリスからオランダへ行くことになり、アムステルダム行きの飛行機に乗りこんだ。
ドイツ占領下、オードリーからエッダに名前を変え、牢獄のような生活を送ることになったオードリー。占領軍の目を盗んで開催されたレジスタンス主催の芝居やオペレッタに出演し、バレリーナを目指していたオードリーにとって、この束の間の余興は現実逃避の手段となるのだった。そして戦後、ロンドンのバレエ学校へと通うことになる。戦争による中断や栄養失調で2年のブランクがあり、先生の家に住み込んで何か月も特訓するも、プリマになれる可能性は低いといわれた。
ミュージカルの仕事を毎晩2公演こなす大部屋女優となるなか、イギリス映画などに端役として出演。クレジットに名前のないエキストラ出演のほかにも『若気のいたり』(1951)、『オードリー・ヘップバーンの若妻物語』(1951)、『ラベンダー・ヒル・モブ』(1951)、『オードリー・ヘップバーンの素晴らしき遺産』(1951)などに参加した。1952年の映画『初恋』では、バレリーナとしての姿も披露しているが、オードリー自身は踊ることが本職であり、女優になる気はなかったという。1952年の『オードリー・ヘップバーンのモンテカルロへ行こう』では12分ほどの出演時間を得たものの、アメリカでの公開もオードリーが有名になるまではなされなかった。
『ローマの休日』でハリウッドへ
そんな『モンテカルロへ行こう』の撮影で、オードリーの運命を変える出会いが訪れる。撮影で訪れたオテル・ド・パリで、自身の小説「ジジ」の舞台化を控えていたシドニー=ガブリエル・コレットがオードリーを目にしたことで、ブロードウェイ版「ジジ」への誘いを受けることに。そのときに、78歳のコレットが「あそこに私のジジがいるわ!」と叫んだというのは、有名なエピソードとして知られている。
それと同じころ、ハリウッドでのチャンスも訪れる。かつて端役として出演した『素晴らしき遺産』での演技が注目され、パラマウントが企画していた新たな映画『ローマの休日』で、ハリウッドデビューのチャンスを掴む。オードリーが演じたのは、ローマ訪問中に宿舎の大使館を抜け出したヨーロッパの某国のアン王女。市内をお忍びで冒険するうちに、別の思惑があったアメリカ人の新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)と束の間の恋に落ちていく。おとぎ話を人間の姿で具現化したようなロマンティック・コメディーで、オードリーの気高い雰囲気と自然体の無邪気な魅力が奇跡的な化学反応を起こし、今なお愛される名演技となった。
そんなオードリーは、当時のハリウッドで人気を博していたエリザベス・テイラーやマリリン・モンロー、ソフィア・ローレン、あるいはグレース・ケリーといった“銀幕の女優”とは正反対の魅力を放っていた。華奢な身体に大きなアーモンド型の目、漆黒の髪が印象的で、グラマラスでゴージャスな女性像とは異なる唯一無二のオードリー・スタイルは、その後も輝きを保ち続けることになる。半袖のシャツとウエスト細く絞ったロングスカートというファッションも、映画の影響で流行した。
無名の新人にもかかわらず、オードリーは『ローマの休日』の撮影で特徴である太い眉を抜くことを承知せず、歯並びの悪さを隠すために前歯につけるカバーも拒否している。こうした自然な美しさへの姿勢は、当時のハリウッドで支配的だった美意識への革命ともいえる、新たな理想像を提供してみせるものだった。その魅力はハリウッドを遠く離れて、世界中に及ぶことになった。ちなみに『ローマの休日』の製作費の3分の1は、日本での興行収入で回収されたともいわれている。
そんなオードリーの魅力を伝える撮影前のエピソードも有名だ。カメラテストで、アン王女がベッドに身を投げ出すシーンを撮影した際に、ありのままの姿を収めるためにカットの声がかかった後もカメラを回し続け、そのときに見せた無邪気さやユーモラスで知的な言動が監督のウィリアム・ワイラーの目に留まり、抜てきの決め手となった。ほかにも、アン王女とジョーが古代ローマの彫刻「真実の口」に手を入れる挑戦を行う、あの有名な場面の撮影では、グレゴリーが手を袖口に隠すことを知らされていなかったオードリー。そのため、演技ではない驚きの声を上げた。ワイラー監督も彼女の自然な表情を気に入り、撮り直しをせずにこのカットを使うことを決定。オードリーの魅力を語る逸話と共に『ローマの休日』は語り継がれることになっていったのだ。
スターとしての日々
続く主演映画は『ローマの休日』が封切られる前に製作が決定していた『麗しのサブリナ』(1954)。オードリーが演じたのは、大富豪の兄弟を相手に恋を繰り広げる、お抱え運転手の娘のサブリナ。身分違いの恋を描くシンデレラ・ストーリーで、サブリナはパリ留学を経て、洗練された女性へと生まれ変わることになる。このサブリナの衣装を担当したのが、映画にはクレジットされていないものの、ユベール・ド・ジバンシィである。ジバンシィの功績は計り知れず、サブリナパンツなどのファッション文化を生み出すことになったのは周知の通り。特別な友人として、その後も数多くの衣装をオードリーの出演映画で手掛けることになる。
二人の最初の出会いは、キャサリン・ヘプバーンが衣装選びに来ると思っていたジバンシィにとっては落胆ものだったのだが、彼の幾何学的でシンプルなデザインのドレスは、オードリーがコンプレックスに感じていた身体の欠点を魅力的に見せ、本来の美しさを引き出すものだった。この映画でアカデミー主演女優賞にノミネートされたオードリーは受賞には至らなかったものの、スターとしての存在感を確固たるものにしていく。
ただし、プライベートでは大きな別れと出会いを経験している。『ローマの休日』の撮影後、女優としての駆け出し時代から交際していたジェームス・ハンソンという御曹司の男性との婚約を解消している。その後に『ローマの休日』がイギリスで上映されることになり、訪れたロンドンで俳優にして舞台演出や映画監督としても活躍するメル・ファーラーと出会う。ファーラー演出の舞台「オンディーヌ」に出演し、のちに二人は結婚。仕事上のパートナーともなっていく。
メルと二人で出演した1956年の『戦争と平和』がオードリーの次回作となる。この当時、オードリーはメルとの子どもを流産するという悲劇に見舞われるものの、その悲しみを乗り越えるべく、女優として難役に挑む。『戦争と平和』はさまざまな映画会社が競って製作していたスペクタクル大作の一つに数えられるもので、オードリーはナターシャ・ロストフ役を担った。『ローマの休日』や『麗しのサブリナ』と異なり、物語の時間経過に沿った順撮りでないことも身体的な負担を強いることになるなか、オードリーの演技は高い評価を得る。映画自体は批評的にも興行的にも失敗という形に終わるが、ナターシャのイメージを決定づけるような演技を披露した。
その後も活躍を続け、1957年には初めてのミュージカル映画『パリの恋人』でフレッド・アステアと共演を果たす。物語は後年の『マイ・フェア・レディ』(1964)を思わせるシンデレラ・ストーリーで、オードリーはひょんな事からファッション雑誌のモデルを依頼される書店員のジョーにふんしている。アステアとのコンビはスマートな魅力と繊細さを感じさせるもので、洗練されたオードリーのコメディエンヌぶりがダンスシーンにも発揮された。この作品でもジバンシィの衣装が輝きを放っているが、これ以降、オードリーの映画での衣装デザインをジバンシィが手掛けるという一項が契約に盛り込まれることになる。
同じ1957年には、『麗しのサブリナ』に続いてビリー・ワイルダー監督とタッグを組んだ『昼下りの情事』も公開。ゲイリー・クーパーを相手役に、ワイルダー監督によるブラックユーモアも感じさせるロマンティック・コメディーに仕上がっている。さらに『尼僧物語』(1959)で複雑な精神的葛藤を抱える尼僧を好演。オードリー自身はカトリック教徒ではなかったものの、尼僧院風の食事をとり、現実の尼僧のように自分の姿を鏡で見ないようにするなど、内面から役づくりを徹底した。プライベートでも待望であった長男のショーンを授かることになり、仕事をすべて断り、スイスで出産している。
1960年代、女優としての成熟した魅力
1960年代のオードリーは成熟した演技を披露していく。初めての西部劇となる『許されざる者』(1960)に出演し、1961年には『ティファニーで朝食を』が公開される。娼婦をしながら自由気ままに自堕落な生活を送るホリー・ゴライトリーが、同じアパートに暮らす作家の卵と出会うというストーリーで、ホリー役はオードリーとは対照的な役柄だった。トルーマン・カポーティの同名小説をもとにした映画で、カポーティはマリリン・モンローをイメージして執筆したといわれているが、オードリーにとっては女優としての可能性を拓いていく作品となった。
冒頭のシーンはよく知られている名シーンだ。黒のイブニングを身にまとい、アップにした髪と真珠でパリを体現したようなオードリーの登場シーンで、単なる娼婦という以上の深みを与えている。オードリーはジバンシィのブラウスやスカートに守られていると感じると発言していたように、この映画でも堂々たる雰囲気をたたえている。映画の代名詞ともなった楽曲「ムーン・リバー」をホリーがギターで奏でる場面は、スタジオの幹部によってカットされるところ、オードリーが強く反対して残されることになった。こうした慧眼ぶりこそ、彼女が演じるだけでなく、自分の見せ方を知っている芸術家だといわれる理由なのだろう。
再びワイラー監督と組んで女性同士の恋を描いた『噂の二人』(1961)に挑み、ヒッチコック風のサスペンス・コメディー『シャレード』(1963)に出演。『シャレード』の成功を受けて、ジョン・F・ケネディは称賛の言葉を一度ならず電話で伝えたとされ、オードリーは大統領の46回目の(そして結果的に最後の)誕生日パーティーでは「ハッピー・バースデイ、ディア・ジャック」と歌っている。マリリン・モンローほどには有名ではないものの、オードリーの人柄を伝えるエピソードとして知られている。
そして、1964年にはオードリー最大のヒットを記録した『マイ・フェア・レディ』が公開。『若草物語』『スタア誕生』などのジョージ・キューカーが監督したミュージカル映画で、オードリーは言語学が専門のヒギンズ教授によって変身していく花売り娘イライザを演じた。歌曲の多くは吹き替えであることは当時から賛否を呼んだが、前半のおてんば娘から変身後の淑女という両方を魅力的に演じきったのは、オードリーの演技力のなせる業にほかならない。
さらに、再びワイラー監督『おしゃれ泥棒』(1966)に出演。劇中では掃除係に変装したオードリーに、ピーター・オトゥールが「これでジバンシィは一晩休める」とセリフを吐くなど、肩の力を抜いて楽しめる、おしゃれで軽やかなコメディーとなっている。1967年には、結婚して12年になる夫婦の過去や現在を描くロードムービー『いつも2人で』が公開。しだいに夫婦仲が冷めつつあったオードリー自身をも思わせる物語となっており、円熟味あふれる味わい深い演技で新しい魅力を見せている。
晩年の日々
1967年の『暗くなるまで待って』では、アパートの一室で恐怖のどん底に叩き落される盲目の女性を演じた。その印象的な瞳が盲目に見えないのではないかという制作陣の意向に対して、オードリーはサングラスや目の傷といった外的な役づくりではなく、徹底した観察と実践で役を作り上げた。その結果、オードリーは7キロほど体重を減らしたといわれている。このとき、息子は6歳になっており、この撮影時が初めて離ればなれになる機会であったこと、本作のプロデューサーを務めたメルとの不仲もオードリーにとってはよからぬ影響を与えたのかもしれない。
オードリーは1968年にメルと離婚。翌1969年には医師であったアンドレア・ドッティと再婚し、ローマへ移住して新たな子どもを授かっている。だが、浮気性だったアンドレアがあるパパラッチに200人以上もの女性との密会を目撃されたり、自身も街で注目を浴びる生活におびえるなど、落ち着かない日々が続く。経済的な危機によって治安も不安定だったイタリアを離れて、スイスへと親子3人で移り住むことに。女優としての活動も影をひそめることになる。
そんな彼女は晩年、子どもたちの勧めもあって、1970年代からは『ロビンとマリアン』『華麗なる相続人』『ニューヨークの恋人たち』に出演するが、女優としては一線を退いたものだと思われていた。そんなオードリーの最後の出演作は、スティーヴン・スピルバーグ監督の『オールウェイズ』(1989)。還暦を迎えたオードリーが特別出演することは、驚きを誘った。オードリーは、同僚を助けようと爆死した消火隊員ピートが出会う、スラックス姿の天使を演じている。
むしろ晩年の彼女にとっての新たな門出は、最後のパートナーであるロバート・ウォルターズというオランダ人男性との出会いや、スイスでの自然に囲まれた穏やかな生活、そしてユニセフ親善大使としての旺盛な活動によってもたらされたものだった。ドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』では、彼女の女優としての栄光とともに、一人の人間として愛を求めて生きた人生が語られていく。スクリーンを見つめるだけでは見えてこない、彼女の生き方を改めて知ることができる。
そこから見えてくるのは、オードリーがスクリーンで見せる魅力とは、彼女の生き方とわかちがたく結びついていること。演技を正式に学んだ経験がなくハリウッドに飛び込み、女優としての自身の欠点を正しく見つめ、あくまで自分らしさを失わずに生きた一人の女性としてのオードリー・ヘプバーン。彼女の存在が人生論のように語られるのも、女優としての活躍にとどまるものではなく、彼女の信念や生き方が魅力を放っているからこそ。没後30年を迎えても憧れの視線を浴び続けているオードリーの輝きを、再び味わってみてはいかがだろうか。
参考文献
バリー・ハリス著「オードリー・ヘップバーン物語」集英社刊
北野圭介「大人のための『ローマの休日』講義 オードリーはなぜベスパに乗るのか」平凡社刊