<作品批評>『アメリカン・スナイパー』
第87回アカデミー賞
『アメリカン・スナイパー』が扱う題材はちょっと際どい。なんせイラク戦争で160人以上を射殺したネイビー・シールズの伝説の狙撃手、クリス・カイル(1974年生~2013年没)の半生を描く映画だから。もちろん単純に彼をヒーロー視したものでもなければ、いわゆるアメリカ万歳でもない。過酷な戦場の真実と戦争後遺症を軸にした痛烈な苦味を持つ内容だ。しかし大枠だけ取れば、ナショナリズムの高揚に取りこまれる危うさは充分。特にISIL(イスラム国)の暴走などで国際情勢がピリピリと緊張感を増している現在では、なおさらであろう。
(文・森直人)
実際、いま全米で、本作はクリント・イーストウッド監督作の中で最大のメガヒットを記録更新中である。まさに「国民的」な人気作になっているのだ。そしてアカデミー賞では作品賞をはじめ6部門にノミネート。ただし監督賞候補にイーストウッドの名はない。つまりは監督よりも、クリス・カイルの存在の比重のほうが大きいものとして受容されていると言えそうだ(ちなみに日本で絶賛されたイーストウッドの前作『ジャージー・ボーイズ』は、本国での評価は芳しくなかった)。
確かに他の主要ノミネート作品を見ると、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』はバックステージ物だし、『グランド・ブダペスト・ホテル』は虚構性の高いアート・エンタテインメント。他もミニマムな作風や題材が多く、趣向の拡散した小粒の良作が横並び、という近年のアカデミー賞の傾向がますます加速している。その中で「アメリカ」という全体性を背負う“大きさ”は『アメリカン・スナイパー』が突出しており、受賞結果においてもかなり健闘するかもしれない。
もちろん、アカデミー賞が本作の真価を正当に評価するのなら筆者も歓迎したい。例えばイーストウッドが自ら鬼軍曹を演じた1986年の『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』に比べると、『アメリカン・スナイパー』の深みと哀しみは圧倒的である。『ハートブレイク~』ではレーガンによる米国のグレナダ侵攻を「男のドラマ」の舞台にしていたが、『アメリカン・スナイパー』ではカイル以外の兵士からイラク戦争に対する疑問の声がはっきり口にされる。原作となった自叙伝『ネイビー・シールズ 最強の狙撃手』(原書房刊)と映画を比較すると、イーストウッドがこの題材に批評的な視座で取り組んだのがよくわかる。
おそらくこの映画は「現代のカウボーイ」の悲劇として捉えると、本質が見えてくるのではないか。テキサス生まれの健全でシンプルな男が、こんな形でしか「男」になれず、帰国後は激しいPTSD(心的外傷後ストレス障害)に襲われてしまう。そして38歳の時、皮肉にも戦場ではなく日常生活の場で亡くなった。そんな彼の姿を、イーストウッドはただ静かに淡々と見つめているだけだ。これは明らかに『許されざる者』以降のイーストウッド映画に特徴的な「挽歌」系、もはや古き良き図式が成立しないアメリカへの厳粛なレクイエムである。
やや余談めくかもしれないが、筆者が連想するのはブルース・スプリングスティーンの1984年の大ヒット曲『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』のこと。この曲はちゃんと歌詞を解読すれば、ヴェトナム戦争の痛みをシニカルに歌ったナンバーである。しかしレーガンが選挙運動で歌詞を都合よく引用したりなど、複雑な苦味は覆い隠されて、多くの人が単純なナショナリズムへと曲解。コマーシャルな愛国歌として全米の爆発的な人気を得てしまった。
『アメリカン・スナイパー』の持つ際どさや危うさは、これとほぼ同質のものだろう。しかし『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』がやはり永遠の名曲であるように、本作もイーストウッドの洞察力と演出力が存分に発揮された傑作であることに変わりはない。アカデミー会員の見識を繊細なレベルで測る意味でも、今回のアカデミー賞における非常に重要な一本だと思う。