第16回:『赤ちゃん教育』(1938年)
名画プレイバック
犯罪サスペンス、西部劇、アクション、SF、と幅広いジャンルで名作を生み出したハワード・ホークス。コメディーでは『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)という快作があるが、今回はそれと並ぶ傑作にして、名女優キャサリン・ヘプバーンからコメディエンヌの才能を引き出した『赤ちゃん教育』(1938)を紹介したい。(冨永由紀)
ケイリー・グラントとヘプバーンが演じるのは、インテリ男性が怖いもの知らずのお嬢様に振り回されるというスクリューボール・コメディーの典型。古生物学者で、完成まであと一歩の恐竜の骨格標本と格闘中のデヴィッド・ハクスリー(グラント)は結婚式を翌日に控えている。そんな彼をサポートする花嫁アリスはしっかり者。そこに闖入(ちんにゅう)するのが、お金持ちのお嬢様のスーザン(ヘプバーン)だ。
出会いからして凄まじい。勤務先の博物館運営資金のスポンサーが必要なデヴィッドは、富豪のランダム夫人の代理人と接待ゴルフに出かけるが、隣りでプレイしていたのがスーザン。彼女はまずデヴィッドのゴルフボールを、次に彼の車を自分のものと取り違える。スーザンによってボールは打たれ、車は彼女のめちゃくちゃな運転でボコボコに。デヴィッドは必死に誤解を解こうと説明するのだが、スーザンはまるで聞く耳を持たない。その夜の会食でも鉢合わせし、またトラブルが発生、やがて彼女がランダム夫人の姪であることも判明する。翌日、デヴィッドのもとに骨格標本の最後の1ピースとなる恐竜の骨が届き、スーザンのもとにはタイトル・ロールである“赤ちゃん”こと豹の“ベイビー”がブラジルから到着し……と矢継ぎ早に事は進み、舞台はニューヨークからコネティカット州のランダム夫人の別荘へ移り、ランダム夫人のペット犬が絡む骨紛失、豹の逃亡など、さらに騒動は広がっていく。
ハプニングから次のハプニングへと、小気味よく展開するテンポは絶妙。でたらめなようで実に緻密なストーリーはシェイクスピアの喜劇の味わいもあり、全員どこかおかしいキャラクターたちの面白さは、ここで下手に説明するよりも、ぜひ作品を実際に見て確かめてもらいたい。
コメディー初挑戦だったヘプバーンは、初めのうちは面白く演じようと意識し過ぎていたという。保安官役で出演していたヴォードビリアン(※軽演劇俳優)のウォルター・キャトレットの助言から、面白くしようという考えを捨てることが肝要だと学んだそうだが、ひとたびコツをつかめば、さすがなもの。とんでもなくけたたましくて自己チューなスーザンになりきった。このヒロインが堪え難いという感想はあちこちで見受けるが、それこそ演技派女優の面目躍如だろう。
洒脱な二枚目のグラントは、本作では喜劇スターのハロルド・ロイド風(※1920年代をメインに活躍したサイレント映画の大スターでコメディアン)のメガネ姿で研究以外はまるで不器用という役柄にぴたりとはまり、はちゃめちゃな状況に段々影響されていくさまを演じている。撮影は即興も多かったというが、別荘でデヴィッドがスーザンのネグリジェを着るはめになった際の「突然ゲイになったんだ!」というセリフは台本にはない完全なアドリブ。当時、ゲイという言葉は一般的には同性愛者という意味よりも「陽気」「にぎやか」を指すものだったが、ヘイズ・コード(映画製作倫理規定の名の下に1934年から1968年までハリウッド映画界で実施された自主規制)の時代に、隠喩を込めた大胆なセリフだったと見る向きもある。
ヘイズ・コードは犯罪や性の表現を制限するものだったが、お嬢様が結婚を控えた博士に夢中になり、言うなれば略奪愛に走る物語なのだから、スーザンのキャラを筋金入りの“天然”ぶりで笑いに包みながらも、内容的にはかなり攻めた作品だったのではないか。実は意外に策士ながら目論み通りにいかず、しおらしく反省したりするヒロインは、やはりヘプバーンが演じたからこそ真に迫るものがある。
女と男、豹、犬、骨。取り違えと追跡に終始する102分間はとにかくスピーディでクレイジー。ホークスは後に、ピーター・ボグダノヴィッチ監督から受けたインタビュー中で、この映画の欠点として「まともな人間が1人も登場しなかった」ことを挙げている。それこそが本作のタイムレスな面白さなのだが、80年近く前の公開時には斬新過ぎたのかもしれない。興行的に惨敗を喫し、それ以前からヒット作に恵まれず“ボックスオフィス・ポイズン”という不名誉な呼称をつけられていたヘプバーンはこの作品をもって契約していた映画会社RKOを去った。
それにしても、なんたる疾走感。狂騒のまま、一気にラストへなだれ込む。これってハッピーエンドなのか? 素直に見れば、そうなのだろう。長いはしごが登場するくだり(『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見ていて、何故かこの場面を思い出した)は一捻り利かせた“つり橋効果”めいていて、恋愛あるいは結婚の真髄を暗示しているようにも見える。