第21回:『ガス燈』(1944年)監督:ジョージ・キューカー 主演:イングリッド・バーグマン
名画プレイバック
映画史に燦然と輝く銀幕のスター、イングリッド・バーグマン。8月29日に生誕100年を迎える記念となる今年、5月に開催されたカンヌ国際映画祭の公式ポスターに起用され、今なおアイコンとして世界中の映画ファンに愛され続けている。生涯で3度のアカデミー賞を受賞したバーグマンが、初のアカデミー賞主演女優賞に輝いたのが『ガス燈』(1944年)だ。(今祥枝)
スウェーデン出身のバーグマンは母国でも名の知られた女優だったが、自身が主演のスウェーデン映画『間奏曲』(1936年)のリメイク『別離』(1939年)でアメリカ映画初出演を果たし、瞬く間にハリウッドを代表する女優のひとりとなった。何よりも、知性と誠実さを備えた際立つ美貌に観客が目を奪われたことは想像に難くない。代表作として最もよく知られているのは、やはり美貌が映えるメロドラマの要素が強い『カサブランカ』(1942年)だろうか。もちろん、AFI(アメリカ・フィルム・インスティチュート)選定の「映画スターベスト100」の女優部門で堂々の第4位の実力は、圧倒的な説得力をもって観客を物語の世界へ引き込む確固とした演技力に裏打ちされている。
『ガス燈』は、パトリック・ハミルトンの戯曲の舞台版をもとにした心理サスペンス。1940年の英国版映画化もあるが、2度目の映画化となった本作が有名だ。品のよいフランスの美形スター、シャルル・ボワイエと、この時期“理想の女性像”として絶大な人気を博したバーグマンの美男美女の共演は、本作を観る上で最大の見どころのひとつ。だが、舞台でキャリアを積んだ、確かな実力の持ち主ボワイエと、若き実力派バーグマンの静かな火花が散る演技合戦、とりわけその視線の演技は、密室劇であり心理戦が主題である本作にふさわしく見応えがある。
映画は、両親を早くに亡くし、育ての親だった高名な歌手の叔母が何者かに殺されたポーラ(イングリッド・バーグマン)が、霧深いロンドンのソーントン街からイタリア留学に向かう場面から幕を開ける。事件は未解決だったが、太陽が輝く新天地でポーラは恋に落ち、声楽の勉強をやや唐突に諦めて作曲家グレゴリー(シャルル・ボワイエ)と結婚する。グレゴリーの希望もあり、再びロンドンの家に戻り新婚生活を始めるが、蜜月はすぐに終わりを告げ、ポーラは家に閉じこもり、人と会わず、鬱々とした日々を送るようになっていく。
きっかけは、叔母のピアノにあった楽譜に挟まれた男性からの手紙を見つけたこと。聞き覚えのない差出人の名前に狼狽するグレゴリー。その日から、ポーラは物忘れがひどくなり、盗癖も露見する。夜になると部屋のガス燈がふっと暗くなる時間帯があり、誰もいないはずの、叔母のステージ衣装などがしまってある屋根裏部屋から奇妙な物音が聞こえると怯えるポーラ。だが、グレゴリーはポーラの幻覚・幻聴だと言う。自分は狂気に陥ったのかと、不安が頂点に達するポーラ。そんな彼女と夫を、ポーラの叔母と交流があった警部キャメロン(ジョセフ・コットン)が心配そうな顔で見つめるのだった。
映画のかなり早い段階で、グレゴリーが良からぬ目的のためにポーラに近づき、彼女をノイローゼになるように精神的にじわじわと追い詰めていく悪人であることは、誰の目にも明らか。そもそも、冒頭で声楽の先生が「声楽より恋を選ぶ」と報告したポーラに、「恋愛にこそ本当の悲劇がある」と不吉な言葉で送り出す時点で推して知るべし。この点がサスペンスとしては弱いとする見方もあるが、本作の醍醐味は、まさにグレゴリーとポーラの心理戦、駆け引きにあるのであって、過程が重要なのだ。これこそが結末を分かった上で何度でも楽しめる、名作サスペンスの必須条件であろう。
グレゴリーは、今で言うところのモラハラ夫だ。「君は物忘れが多いね」といった些細な刷り込みから始まり、巧妙に仕組んで妻に自分には盗癖があると信じ込ませて、どんどんポーラが自分はダメな人間だ、頭がおかしいのかもしれないと自信を失わせていく。さらに、若いメイドのナンシー(アンジェラ・ランズベリー)と意味ありげな会話を交わしてポーラに2人が通じているかのような疑念を植えつけ、外部の人間には妻は具合がよくないなどと言って他人との接触を断ち、孤独の淵に追いやる。
実際に、本作(原題『Gaslight』)に由来し、嫌がらせなどで被害者の現実認識能力を狂わせようとする心理的虐待を示す用語として、1970年代以降には「ガスライティング」という言葉が広く認知されるようになったという。白黒映画の古めかしいサスペンスだと思っている人も、本作の予想以上の現代性に驚くかもしれない。
このねちねちとした粘着質の、グレゴリーのいたぶり方が秀逸。親切づらをして穏やかに微笑む紳士から、ひとつひとつ計画を実行するたびに、妻を冷ややかな目で睥睨(へいげい)するグレゴリーの視線のバリエーションは、それはもういくら見ても見飽きないほど。例えば大切なブローチをなくして「確かにここに入れたのに……」と狼狽する妻に寄り添いながら、少し眉を上げてポーラを見下ろす高慢な視線は、この男の何たるかを如実に物語っている。ちなみに、このあたりのボワイエの演技と表情が、個人的にはジュード・ロウを思わせるものがあると思うのだが、どうだろうか。
一方、それを受けたポーラが、徐々に壊れていくさまを体現するバーグマンもまた、細やかな感情を目で伝える演技で観客を釘付けにする。イタリアでは恋に瞳を輝かせていた乙女が、生気を失い、ぼんやりと空を見つめながら夫にダメの烙印を押されるたびに、伏し目がちになり、時に怯えてすがるように悲痛な視線を他人に向けるも、無力さを痛感して嗚咽する。そんなポーラがもっとも怯えるのが、タイトルにもなっているガス燈がある時間になると不安定にゆらめき、燈が小さくなって暗くなる瞬間だ。はっと顔を上げ、ゆらゆらと揺れる燈を見つめる目が大きく見開かれ、恐怖の色が浮かび、狼狽しながら「聞こえるはずのない」不気味な音に耳を傾ける。まさに、現実と虚構の間を行き来するような、うつろなポーラの心情がダイレクトに伝わってくる表情の豊かさ、目の演技には、食い入るように画面に吸い寄せられてしまう。
果たして、グレゴリーの目論見はどのような結果に終わるのか? クライマックスでポーラが見せる強く射るような視線と、グレゴリーの何かに憑かれたような、別次元を見ているかのような歪んだ欲望に満ちた視線は、物語を締めくくるのにふさわしい、ここ一番の見せ場だろう。
監督は、『マイ・フェア・レディ』(1964)のオスカー監督ジョージ・キューカー。ゆらゆらと揺れるガス燈の明かりや影、ロンドン名物の霧などを効果的に使って、文字通り身も心も屋敷の中に閉じ込められていくポーラが感じる閉塞感、息詰まる感じを上手く演出している。サスペンスは職人芸的な演出の巧さ、映画の話法が鍵となるがキューカーは、その点においては文句無しの巧者だ。同時に、俳優、特に女優を輝かせることにおいてはピカイチ。キャサリン・ヘプバーンをブロードウェイからハリウッドに呼び寄せ、成功に導いたのもキューカーだし、本作のバーグマンのほかキューカーの作品でオスカーを受賞した俳優にはジェームズ・スチュワート(『フィラデルフィア物語』(1948))やジュディ・ホリデイ(『ボーン・イエスタデイ』(1950・日本未公開))らがいる。また、監督作においてオスカーにノミネートされた俳優は21名に及ぶという。
俳優の魅力を遺憾なく引き出す能力に長けたキューカーは、本作ではバーグマンをこれほどまでに美しく撮ることができるのかと感嘆すら覚えるほどの仕事ぶり。一方で、紳士然としたグレゴリーのソシオパス(反社会的人格障害)としての異常性をはらんだ人物像は、ボワイエの演じた役の中でも出色の出来ばえではないか。本作は第17回アカデミー賞で、作品賞ほかボワイエの主演男優賞、独特の存在感を醸して良いスパイスになっているメイド役のランズベリーの助演女優賞を含む7部門にノミネートされ、主演女優賞と美術監督賞(白黒)を受賞した。ポーラの救世主となるキャメロン警部を演じた、『第三の男』(1949)などで有名なジョセフ・コットンの誠実で颯爽としたキャラクターも印象に残る。